孫堅と呉夫人の間には、
孫策・孫権・孫翊・孫匡といった息子達がいました。
そんな中で孫匡の知名度は非常に低いです。
少ない理由は単純に早く死んでしまった為に、
活躍の場も限られており、単純に孫匡に関する記録が少ないからですね。
目次
孫匡の四男たる所以
孫匡の字は「季佐」といい、
この字からも判断できるように孫堅の四男になります。
どういうことかといいますと、中国の字の付け方の法則として、
「長男・次男・三男・四男」の「字」に、
「伯(もしくは孟)・仲・叔・季」をつけていくようなパターンが存在しているからです。
孫堅と呉夫人の子供達は、まさにそのパターンでつけられていますね。
- 長男:孫策(伯符)
- 次男:孫堅(仲謀)
- 三男:孫翊(叔弼)
- 四男:孫匡(季佐)
他例として、司馬懿の兄弟もこの法則で四男までつけられていますね。
- 司馬朗(伯達)
- 司馬懿(仲達)
- 司馬孚(叔達)
- 司馬馗(季達)
- 司馬恂(顕達)
- 司馬進(恵達)
- 司馬通(雅達)
- 司馬敏(幼達)
孫堅の「鳥程候」の爵位を引き継いだ孫匡
孫匡はおそらく4・5歳あたりの時に父親の孫堅を失っています。
「父親の跡を継いだのが孫策」というのは誰もが知る所ですが、
孫策もまだまだ若い年齢だったのです。
この時に孫堅の鳥程候の爵位を孫策が引き継ぐのが普通なはずですが、
孫策は父の爵位を孫権・孫翊でもなく、一番幼かった四男の孫匡にあげているわけです。
なんでわざわざ何も分からないような年齢の孫匡に
孫策は爵位だけ譲ったんでしょうね?
そのあたりの孫策の真意は分かりませんけど、
そういう表向きのものに対して、何の魅力も感じなかったのかもしれませんね。
だからこそ孫策は己の力を頼りに、その後に江東で勢力拡大に成功していますから・・・
曹操の姪との婚姻
孫策が勢力を拡大し、中原にも目を向けていた頃、
曹操は中原で勢力を確立し、袁紹との小競り合いが起こっていました。
そんな中で曹操は、孫策を敵に回す事を恐れたのでしょう。
曹操は弟の娘を孫一族に嫁がせたわけですが、その女性が孫匡の妻となった感じですね。
ちなみにこの女性の名前は分かりませんが、
曹操の弟というのは、
おそらく徐州で父親の曹嵩と共に殺害された曹徳のことだろうと思っていますが、
曹操の一族も謎が多い人物が非常に多いので、
記録が残っていない別の人物だった可能性もあるとは思っています。
ただ鳥程候の爵位の時もそうですけど、
ここでも孫権・孫翊ではなく、なぜか孫匡の妻として迎えてるんですよね。
孫策はよほど孫匡の事がかわいがっていたのでしょうかね!?
私からしたらそういう風に見えてしまいます。
ただはっきりとしたことは分かりませんが、
孫権も孫翊も妻を既に娶っており、孫匡だけが独身だった可能性も普通にあるでしょう。
ただ孫匡の妻として曹一族の女性を迎え入れれた事で、
おもてむき曹操と孫策は同盟関係を結んだことになり、
曹操は袁紹との戦いに専念できるようになっていったわけですね。
ただこれには少し続きがありまして、孫匡との婚姻が結ばれた後に、
今度は曹彰に孫一族である孫賁の娘を娶らせたという感じになっています。
これがまさに曹操が官渡の戦いに向かっていく前の話だったりしたわけです。
ちなみに曹操は孫策の弟である孫権と孫翊も手厚い対応にて官職につけ、
孫権を茂才として推挙していたりもしていますね。
孫匡の早すぎる死
そしてその後の孫匡ですが、考廉・茂才に推挙をされているのですが、
これから活躍の場が与えられてくると思いきや、官位に任用される前に死んでしまったといいます。
ちなみに孫匡の死因は分かっていませんが、孫匡の年齢は20代であったようです。
孫匡の兄弟である孫策・孫翊同様もそうなのですが、
孫匡もまた短命で亡くなったわけですね。
余談ではありますが、孫匡には孫泰という息子がいましたが、
234年の合肥の戦い(第四次)で満寵の軍勢と戦いの中で、流れ矢で亡くなっています。
「江表伝」に記載されている孫匡
「江表伝」とは、晋が統一を果たした後の話ですが、
西晋の虞溥という人物が編纂した呉の歴史書になります。
陳寿の「三国志」とはまた違いますが、
三国志の世界を探る上で、参考にされている文献の一つでもありますね。
ちなみにこれも裴松之が注釈として加えたものなので紹介しておきたいと思います。
そして「江表伝」には次のような記載が見られます。
曹休軍と呂範軍が激突した洞口の戦いなんですが、
孫匡は定武中郎将であったけれども、
呂範の命令を聞かずに火を放ってしまった事が原因で、物資の損失を招いた罪で罰せられたとあります。
これにより孫権から一族からの追放を言い渡されたばかりか、
死ぬまで禁固の刑に処せられたという記述があります。
ちなみにこの時、
「孫姓の代わりに丁姓が与えられた」という事ですから、
孫匡ではなく、丁匡になってしまったとか・・・
「江表伝」に関する疑問点
「江表伝」に記載されているこれらのことは孫匡のことではなく、
異母弟であった孫朗の事だと言われています。
何故なら、陳寿が三国志正史でも記載しているように、
「孫匡は考廉・茂才に推挙をされながらも、
官位に任用される前に亡くなった。」
と記載がされているからです。
それなのに孫匡が定武中郎将だったというのは矛盾がありますからね。
またそれ以外に明かな矛盾点として挙げられるのが、孫匡が死亡した年齢でしょう。
孫匡は正確な誕生年や死亡年が分かっていないものの、
孫匡が孫策・孫権・孫翊の弟であり、20代で亡くなったということは分かっています。
これらの点から考慮しても、もし孫匡が洞口の戦いに参加していれば、
少なくとも孫匡が30歳を越えて生きていたことになり、大きな矛盾が発生してしまうわけです。
これは注釈を加えた本人である裴松之も言っているわけですが、
おそらくこれは記載ミスであり、この時に失敗をやらかしたのは孫匡ではなく、
孫朗ではなかったのかという話ですね。
洞口の戦いでの孫匡の記載について
江表伝に「孫匡が参加した」と書かれてある洞口の戦いは、
222年に勃発しています。
ちなみに洞口の戦いとは、十万人を率いた曹休軍に対して、
呂範が徐盛・全琮等をを率いて三万人で対峙し、
苦戦を強いられるものの最終的に呉が勝利した戦いになります。
暴風によって大きな被害を被った中で、賀斉が活躍した戦いでもありますね。
まぁ洞口の戦いを語る上で欠かせないのは、
江陵の戦い・濡須口の戦いも同時に見る必要があった戦いという事ですね。
洞口の戦いが起こった経緯として、曹丕が魏を建国し、
三方面の戦いをしかけた一角の戦争だったわけです。
- 江陵の戦い
- 濡須口の戦い
- 洞口の戦い
まぁそんな三方面の戦いの一角であった洞口の戦いは、
孫堅が死んでから大体三十年経っていますから、
孫匡がそれまで生きていたと考えると矛盾の発生からもあり得ないという結論に到りました。
ちなみに孫堅の死亡年は書物によって違っていますが、
ざっくりと言って192年前後に亡くなったという感じになります。
陳寿「三国志」→初平三年→192年
張璠「漢紀」&胡沖「呉歴」→初平二年→191年
王粲「英雄記」/裴松之注釈→初平四年→193年
話が本題からそれたりはありましたが、
「江表伝」に記載が残されている孫匡というのは、
おそらく孫匡本人ではなく、
裴松之も指摘しているように異母弟であった孫朗のことだったと思われます。