孫策・孫権を支えた名軍師、周瑜!

 

短い生涯の中で孫策と共に呉の地盤を築き、

孫権政権下では曹操を赤壁で撃退することに成功した周瑜の生涯を見ていきます。

周瑜(しゅうゆ)

175年に揚州廬江郡で生を受けた周瑜ですが、

若かりし頃から文武に優れた人物であり、

 

立派な風貌をしていたことから、「美周郎」と呼ばれていたといいます。

 

単純に「周郎」と呼ばれていた事も多かったようですけど・・・

 

 

また周瑜は絶対音感を持っていたようで、

 

酒に酔っていた時にも、

流れていた音楽の弾き間違いを見過ごすことはなかったようです。

 

 

そんな周瑜ですが、孫策が袁術から兵を借りて勢力拡大に乗り出すと、

古くからの縁もあって孫策の陣へ駆けつけて味方しています。

 

孫策は破竹の勢いで江東・江南制覇に成功しますが、

その過程の中で大喬・二喬という絶世の美女と言われた二喬を捕虜として手に入れています。

 

袁術死後に力を持った劉勲との戦いの中でですね。

 

 

姉の大喬は孫策が貰い受け、

妹の小喬は周瑜が手に入れたといった感じですかね。

 

 

この時に孫策が周瑜に対して言ったとされる言葉も残っています。

 

「喬公の二人の娘は絶世の美女であるが、

我々二人を婿に出来たのだから幸せ者だわ!」

といった自分達に完全に酔いまくっているような言葉ですね。

 

阿吽の呼吸で孫策を支えた周瑜でしたが、

孫策は急激な領地拡大を行っていたことも原因で多くの敵を作っていました。

 

そして200年、孫策によって殺害された許貢の食客らが弓矢を放って孫策を襲い、

その時の傷が下で孫策は亡くなってしまいます。

 

 

その後の周瑜は、孫策の跡を継いだ孫権を補佐していく立場となるわけです。

孫策 -江東制覇を成し遂げた小覇王-

赤壁の戦いで勝利

孫策の跡を継いだのが弟の孫権なわけですけど、

それから8年後の208年に曹操が荊州の劉琮を降して、呉へ侵攻を開始してきます。

 

張昭はじめとして多くの者達は降伏論を唱えるわけですが、

この時に戦う事を主張したのが周瑜・魯粛でした。

 

 

ちなみに魯粛は劉曄に誘われるも、

最終的に周瑜に誘われる形で孫権に仕えていますね。

 

 

二人は以前にも交流があり、

周瑜が袁術から離れることを決意して居巣県長に任じられた時の話です。

 

周瑜が金・食糧が不足していた際に富豪であった魯粛に援助を申し出たことがあり、

魯粛は2つ持っていた倉の1つをまるまるあげて援助したわけです。

 

 

この時から二人は互いに認め合い交流をしていくのですが、

魯粛を誘えたのもこの時からの周瑜との交流があったからこそでしょう。

 

 

話を戻すと、孫権は周瑜・魯粛の意見を採用したことで、

 

魯粛が劉備との同盟を締結し、

孫権・劉備連合軍として曹操と対決することを決意します。

 

そして苦肉の策・火計を用いて見事に曹操軍の撃退に成功したわけです。

 

 

実際は疫病が流行っていたそうなので、

曹操が撤退した本命の理由は疫病が原因だった可能性も高いと思いますが・・・

 

とにかく赤壁の戦いに勝利したことで、周瑜は国を守ることに成功したのです。

曹操が赤壁で敗れた原因は、疫病(住血吸虫病・チフス)のせい?

 

 

ちなみに孫堅の時代から仕えていた程普は、

周瑜を快く思っておらず、

 

この赤壁の戦いでの指揮を孫権は二人に気遣って、

最終的に周瑜・程普の二人に任せていたというのは余談ですけどね。

 

 

ただ周瑜はいかなる時でも程普を敬って接し続け、

 

その姿に感銘を受けた程普は、

周瑜に対して敬意を払うようになったという話もあります。

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江陵城を巡る激闘

赤壁の戦いで勝利した周瑜は、

その勢いのまま荊州を手中に収めるべく侵攻を開始します。

 

 

周瑜は曹仁の守る江陵へと攻め込みますが、

 

周瑜は苦戦を強いられ、

攻略に一年程度の時間を割かれてしまったわけです。

 

 

最終的に曹仁が退却したことで江陵を手中に収める事に成功した周瑜ですが、

この戦いの中で周瑜は矢傷を負ってしまいます。

 

そして孫権から偏将軍・南郡太守を任せられ、江陵に軍を駐屯させていました。

 

 

ただ周瑜が江陵攻略にてこずっている間に、

劉備は荊州南部四郡の攻略に成功していたことは周瑜にとっても誤算だったようです。

 

 

常々周瑜は劉備を邪魔な存在だと考えており、

孫権の妹である孫夫人を劉備の妻として娶らせたりして抱き込もうと考えますが、

 

結果的に劉備を手なずけることに失敗してしまいます。

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周瑜最後の戦略「天下二分の計」

蒼天航路(26巻67P)より画像引用

 

劉備を抱き込むことを考えた周瑜でしたが、

 

劉備を堕落させる作戦が失敗したことで、

孫権は劉備が手に入れた荊州南部をそのまま維持させ、同盟関係を継続させたのでした。

 

 

周瑜としては劉備を堕落させ、関羽・張飛と引き離して、

自分の軍の中に二人を組み込みたかったようですが、

 

孫権もさすがに二人を取り込むことは無理だろうと考え、

周瑜の考えを却下したことで実現することはなかったわけです。

 

 

しかし周瑜は天下統一を果たすべく益州へ侵攻し、

涼州の馬超と結んで曹操打倒を行うという「天下二分の計」を実行に移すわけですが、

 

益州へ軍を発進させた矢先、

曹仁との戦いで負った傷が悪化して死亡・・・

 

 

これにより周瑜が思い描いた「天下二分の計」は中止されるわけですが、

もし周瑜が死なずに攻め込めていたならば、高い確率で成功していたと思いますね。

 

 

ただそうなっていた場合、

曹操・孫権・劉備に分かれて天下を争う三国時代は生まれなかったわけで、

 

そういう意味では周瑜が良いタイミングで亡くなってくれたからこそ、

「三国志」が多くの人に愛されるものとなったことだけは間違いないかと・・・

周瑜が描いた益州攻略からの「天下二分の計」

 

 

孫権は建業に戻ってくる周瑜の柩を蕪湖まで出迎え、

周瑜の葬儀にかかる費用を全て負担してあげたようです。

 

 

孫策にとっては親友であった周瑜ですが、

孫権からしてみれば兄の存在に近かった周瑜だからこそ、

 

孫権の悲しみは計り知れなかったものでしょう。

 

 

孫策・孫権の母である呉夫人は、孫権が孫策の跡を継いだ際に、

「周瑜殿を実の兄のように接しなさい」とも言われていますし、

 

孫権は毎年多くの服を周瑜にプレゼントしたといった話も残っていますから・・・

三国志演義での記述

横山光輝三国志(30巻103P)より画像引用

 

揚州を代表する名家の出身であり、容姿もよく、文武の才能にも優れており、

それ以外にも多くの長所を兼ね備えていたのが周瑜です。

 

また正史の著者である陳寿は、

「後漢皇帝の後ろ盾である丞相の立場にいた曹操に対して、

多くの者達は何が正しい考えなのか分からなくなっていた・・・

 

そんな中で周瑜と魯粛だけが冷静に状況分析し、人に惑わされることも一切なかった!

真に非凡の才能である!!!」と非常に高い評価を与えています。

 

 

しかし三国志演義での周瑜は、

諸葛亮に翻弄されまくる役柄になっており、

 

最後は「天は私をこの世に生みながら、

なぜ孔明まで生まれさせたのだ!」と叫んで息絶えています。

 

 

周瑜は優れた人物として描きながらも、

 

「そんな優れた周瑜よりも諸葛亮の方がもっと凄いんですよ」

といった構図を作っているわけです。

 

 

十万本の矢の話や荊州争奪戦でも、

常に諸葛亮に敵わない周瑜の姿が描かれていますし、

 

そして最後には諸葛亮の手紙を読んで血を吐いて死ぬという・・・

 

 

ただそれは劉備・諸葛亮を正義とする三国志演義だからの話であり、

正史の視点から見れば、周瑜が諸葛亮に翻弄されるなんて話はありませんね。