「二十四孝」に数えられた孟宗(もうそう)

孟宗は幼い頃に孫権に仕えていた李粛の下で学問を学び、

 

孫権に仕官してからは、

孫権・孫亮・孫休・孫晧と孫家四代に仕えた人物です。

 

 

なにより孟宗は親孝行な息子で、

「二十四孝」の一人に数えられています。

 

ちなみに「二十四孝」とは、

後世の模範となりうるような孝行な人物を24名取り上げたものであり、

 

三国時代からは孟宗以外にも、

陸績・王祥なども「二十四孝」に数えられていますね。

 

ただ書物や文献によっては、24名の人物が多少違っているのは余談ですが、

孟宗・陸績・王祥の三名は、安定して「二十四孝」に選ばれています。

 

 

現在でも使われている「孟宗竹」というのは、

「孟宗が見つけた竹」が由来となってできた言葉になります。

 

今回は「二十四孝」に数えられた孟宗の逸話を紹介したいと思います。

 

 

ただ孟宗の親孝行ぶりを語る上で、

孟宗の母親も孟宗に劣らず立派な人物であったことは外せません。

 

むしろ孟宗の母親の方が、

立派な人物なのではと思ってしまうほどです。

天文学・暦学に通じていた「二十四孝」陸績

60歳を超えて仕官し、三公まで昇進した「二十四孝」王祥

母親特製の大布団

孟宗李粛の元で学問を学んでいたころ、

母親が孟宗の事を思って大きな布団を作ってあげた事がありました。

 

 

あまりの大きさの布団に疑問を抱いた者が母親に理由を尋ねると、

 

「孟宗は貧しく、

客人を招くような徳は持っておりません。

 

ただそれは孟宗だけに関わらず、

学問に励んでいる者には貧しい者が多いのも事実です。

 

 

もし大きな布団があれば、

孟宗と同じ境遇の者達が自然と集まってきて、

 

孟宗がそれらの者達と仲良くなるでしょうし、

それを願って作った次第ですよ。」

と答えたといいます。

 

 

孟宗は母親の気遣いに感謝し、昼夜を問わず勉学に励んだのでした。

 

その姿を目の当たりにしていた李粛は、

「孟宗が宰相になる器を持った人物である」と高く評価しました。

 

この頃から孟宗は、

朱拠(驃騎将軍)の軍吏として取り立てられることになります。

 

その後に孟宗は宰相になることはありませんでしたが、

三公である司空まで上り詰めています。

聡明な母親

孟宗は朱拠の軍吏として仕官したものの、貧しい生活は続いており、

拠の陣営に母親を迎え入れて住みだした時の事です。

 

ただその陣営にある住まいは、

雨が降り出すと、必ず雨漏りをするよう場所でした。

 

 

そんな境遇に対して、孟宗は己が鳴かず飛ばずのせいで、

母親をそんな場所に住まわせている事を申し訳なく思って涙を流します。

 

その様子を見た孟宗の母親は、

「今は一生懸命にやる事が大事な時期だから、

そんな心配は無用だよ。」

と孟宗に言葉をかけて励ましたといいます。

 

この話を聞いた朱拠は、孟宗を塩池司馬に任命されたそうです。

 

 

そしある時に孟宗が、母親に魚の漬物を食べさせるために、

網を作って、それで魚を捕らえた事がありました。

 

そしてその魚を漬物にして母親に持って行ったところ、

「母親は漬物を食べずに孟宗に返却した」といいます。

 

 

孟宗がその理由を母親に尋ねると、

お前は魚を管理する職務についているのに、

私に魚を送ることでいらぬ疑いをかけられてしまう事もあろう。

 

それが例え自らで捕獲した魚であったとしてもです。」

と孟宗のやった行動に注意を促しています。

 

 

孟宗は母親の事を常に気遣いつつ、

一方で母親もまた孟宗の事を考えてあげていた関係性だったわけです。

 

「この母ありて、孟宗あり」ですよね。

「孟宗竹」の由来の逸話

これまでなにかと孟宗を助けてきた母親が病気になった事があり、

その際に母親がたけのこが食べたいもんだねぇ」と話した事がありました。

 

孟宗は母親の為に筍を取りに行ったものの、

冬の季節に筍が生えるわけもなく、深く悲しんだといいます。

 

 

孟宗が深く悲しんでいると、不思議な事に筍が生えてきたのでした。

 

 

「孟宗はその筍を見ると、大変に喜んで持ち帰ります。

そして母親に食べさせたところ元気になった」という話があります。

 

この話がもととなって「孟宗竹」という言葉が誕生しています。

母親の死&司空(三公)にまで出生した孟宗

その後の孟宗は県令に出世したわけですが、

この時に孟宗の母親が亡くなってしまう不幸にみまわれます。

 

しかし親が死んだ時でも交代者が着任するまでは、

親の葬儀を行う事は禁止されていました。

 

「もしも法を破る事があれば処刑される」という厳しいものでした。

 

 

しかし母親の朴報を聞いた孟宗は、自分の気持ちを静めることができず、

死罪を覚悟の上で母親のもとへと急ぎ帰り、母親の葬儀を執り行いました。

 

そして無事に葬儀が終わると、自ら罪を受ける為に出頭したわけですが、

この時に孟宗の助命を行ったのが陸遜でした。

 

 

陸遜からの助命嘆願を聞いた孫権は、

「今回は特例であって死罪は許すが、次はないぞ!」

と言って孟宗は許されたといいます。

 

 

そしてしばらく時が過ぎ、陸遜が亡くなり、孫権もまた亡くなると、

新たに孫亮が皇帝に就任するわけですが、この時に九卿である光禄勲にまで出世しています。

 

また孫亮が廃立させられ、孫休が次の皇帝となった際には、

政治の中枢的役割を担うことになる右御史大夫に任命されていますね。

 

そして呉のラストエンペラーである孫晧の時代には、

三公である司空まで上り詰めています。