「二十四孝」の一人に数えられた陸績

陸績は188年に揚州呉郡で陸康の末っ子として生まれます。

 

陸康は揚州廬江郡の太守をしていましたが、

この頃、寿春に移動してきて勢力を拡大していた袁術との争いを避けるために、

陸康は陸績を連れて袁術の元を尋ねます。

 

 

この時の陸績は6歳でしたが、袁術と対談した席で蜜柑が置いてありました。

 

陸績はその蜜柑があまりに美味しそうだったので、

母親に食べさせたいなと考え、こっそりと持ち帰ろうとしたわけですね。

 

それを見た袁術は、「あんて卑しい子」だというわけですが、

陸績が母親に食べさせたいと思ったからの行動だということを知ると、

袁術は大変に感動したそうです。

 

この時の陸績の行動が、後に「二十四孝」の一人として数えられるようになります。

孟宗 -「孟宗竹」の由来となった「二十四孝」に選ばれた人物-

60歳を超えて仕官し、三公まで昇進した「二十四孝」王祥

 

ちなみにですけど、三国志演義では諸葛亮が同盟を結ぶために呉に来た際に、

張昭ら同様に降伏論の一人として登場していますが、

 

袁術の元で蜜柑を盗んだことを引き合いに出されて馬鹿にされています。

父親の死

陸康と袁術は、その後争う事もなく過ごしますが、

1年ほどたったある日、陸康と袁術は対立を深める事になってしまいます。

 

この時、袁術配下として活躍していた孫策が廬江郡に攻め込んできますが、

陸康も城を徹底して守りますが、奮闘むなしく最終的には白旗を上げて袁術に降伏。

 

陸康はこの敗戦による心労がたたってしまい、

病死してしまいます。

 

 

陸績は父の陸康と袁術の関係が悪化した頃、

生まれ故郷であった揚州呉郡に帰郷していましたが、

 

陸康がこの世を去ると、幼いながら父の跡を継いでいます。

 

その後孫策が袁術から独立を果たし、揚州を制圧すると、

父の仇でもあった孫策に仕える事を決意しました。

 

おそらく孫策に仕えたのは、

陸績がまだ10歳になってるかなってないかぐらいの年齢だったはずです。

孫策に煙たがれる

孫策に仕えてからは、

幼いながらも孫策に対してはっきりと意見を述べたりしたので、

張昭・張紘らに一目置かれたといいます。

 

しかしあまりにはっきりとモノを言うので、孫策から嫌われていたようです。

 

 

例えばこんなこともありました。

 

ある時、孫策が武力によって天下を平定する為の議論を行っていた蔡、

陸績は幼い事からも末席で参加していたんですけど、

その際に大声で、「武力を用いずに、文徳によって天下を平定すべきだ」と言った逸話も残っています。

 

でもはっきり言って完全に綺麗ごとかなと個人的には思ってしまいますけどね。

 

この乱世の時代に、

武力を用いず文徳のみでの統一など夢物語に過ぎませんし。

 

実際この陸績の発言に関する孫策の感想も残っていない事からも、

「こいつは何を言ってるんだ!?」ぐらいに思ったんじゃないかと思いますね。

孫権にも煙たがれる

孫策が死に、孫権が跡目を継ぐと、

陸績はそのまま孫権に仕える事になります。

 

しかし陸績は自分が正しいと思った事には、

相手が孫策であれ、孫権であれはっきりとモノをいう性格でした。

 

おそらく言い方も露骨すぎたのでしょうね。

孫策同様に、孫権も陸績を毛嫌いしていったような感じがあります。

 

そして赤壁の戦いでは、張昭同様に降伏派の一人だったので、

赤壁の勝利後しばらくして、陸績は鬱林うつりん太守に左遷。

 

 

実際のところ、孫権に毛嫌いされていたことも事実でしょうが、

 

おそらく左遷された一番の要因は、

赤壁の戦いで降伏論を主張したことが左遷の原因だと思われますね。

 

あの張昭でさえ、赤壁の戦いで降伏論を主張したが為に、

生涯に渡って孫権にいじられていますし。

生涯かけて剛直な態度を貫いた呉の御意見番「張昭」

 

また陸績は天文学に通じていて、

自分自身の死ぬ日を予想できていたといいます。

 

死ぬ直前には、自分が死んで60年後に天下は統一されるだろうという予言も残しています。

そして219年に33歳の若さでこの世を去ってしまいました。

 

その約60年後の280年に、実際に晋が天下を平定して予言が的中。

 

 

また陸績の実績の一つとして、「暦」を孫権の命で作り上げており、

この暦は魏よりも正確なもので、当時最新のものだったそうです。

 

闞沢かんたくもそうですが、呉には暦学に優れた人物が多い感じがしますね。

乾象暦(暦)の修正を行った闞沢

余談(陸績の娘)

陸績には陸鬱生りくうつせいという娘がいましたが、

 

陸績が210年に鬱林太守に任命されてから現地で生まれた子なので、

その名をとってつけられています。

 

 

陸鬱生は、13歳の時に張温の弟である張白の元へ嫁いでいますが、

その3か月後に、張温が罰せられた際に連座の罪で夫の張白が流刑にさせられて離婚。

 

たったの3か月で未亡人になった陸鬱生ですが、

流刑にあった夫を想い、生涯に渡って再婚をしなかったそうです。

※陸鬱生が嫁いだ時には、既に陸績は死んでいます。

 

 

ちなみに陸鬱生の生まれた年は書かれてあるわけではありませんが、

張温が罰せられたときの年号は224年あたりなので、

 

この時13歳だったことからも211年生まれだった事は想像できますね。

陸績が鬱林太守に任命された翌年にあたります。