倭についての記載が残る文献

三国志の時代で有名なのは、

「魏志倭人伝」に記載された卑弥呼の魏への朝貢でしょう。

 

中国から見て、当時の日本は「倭」と呼ばれており、

卑弥呼は邪馬台国という国を治め、国内で勢力を拡大していたとみられています。

 

しかし卑弥呼の時代より以前に書かれたものにも、

日本についての記載が見られます。

 

それは前漢の時代の事が記載された「漢書地理志」と、

後漢の時代の事が記載された「後漢書東夷伝」というものになります。

「後漢書東夷伝」から見た日本

 

他にも正史としての史書でなければ、

論衡ろんこう」や「山海経」などもありますし、

 

卑弥呼については「魏志倭人伝」以外にも、

晋の時代に記載された「晋書」にも記述が残っています。

 

今回は当時の中国から見た「倭」について記載されており、

史書として初めて倭についての記載が見られる前漢時代の「漢書地理志」を参考にして、

倭についてみていきたいと思います。

漢書地理志

倭についての記載が残っている個所を「漢書地理志」と呼び、

前漢を中心に記載されたこの文献をまとめて「漢書」と呼んでいます。

 

そして「漢書」を書いたのは、班彪はんひょうの子である班固と班昭でした。

 

 

ちなみにですけど、班彪が司馬遷の書いた「史記」について、

「後伝」65編を補充して編集しており、「漢書」の基礎を作り上げています。

 

漢書の多くの部分を記載したのは班固ですが、

「漢書」を全て完成させる前に亡くなってしまいました。

 

そこで班固の妹であった班昭が兄の遺志を継いで「漢書」を完成させており、

班彪・班固・班昭の生涯をかけて完成させた大作といえるものです。

 

 

ちなみに西域都護として大活躍した班超は、

班固にとっては弟、班昭にとっては兄にあたります。

 

それぞれの歩んだ道は違えど、

兄弟妹それぞれに歴史に名を残したというのは素敵な事ですね。

「倭・倭人」と言われた所以

日本にある程度の規模のまとまり(集落)ができ始めたのが、

このあたりの資料を参考にすると、紀元前1世紀頃だと言われています。

 

ただ「山海経」という資料を見ると、

春秋戦国時代の燕にも朝貢したという記録があることから、

それを考えると紀元前3世紀頃かもしれません。

 

このあたりは諸説あり、

現在の資料ではおおよその推測しかできないのが現状です。

 

ただ大国と呼べるような規模の集落はできておらず、

小国と呼ぶほうがすんなり当てはまる程度の規模でした。

 

 

また最初に小規模の集落ができたのが北九州に現れたと言われており、

彼らが朝鮮や中国と交易を開始したのが始まりだと言われています。

 

実際はそれ以前から交易など行っていたところが、

もしかしたらあったのかもしれませんが記録として残っていないため不明です。

 

そんな中で初めて「倭」に関する記述が、

正史の史書として出てきたのが「漢書」の中にある地理志なわけです。

 

ちなみに中国の史書として最初に登場したのは司馬遷が書いた「史記」になります。

 

この「史記」も前漢(紀元前二世紀)の時代に書かれていますが、

ここでは倭についてのことは一切記載されていません。

 

 

当時の中国の人達は、自分達の大陸を越えた海の先にある日本という国に

この頃から注目するようになっていったそうです。

 

そして、当時の倭(日本)の人達は、

自分達の事を「」や「」と呼んでいました。

 

そのことがきっかけとなり、中国の人々は当時の日本を「倭」と呼びだし、

そこに住む人達を「倭人」と呼ぶようになったわけですね。

 

ただ実際は「日本人が非常に小さかった(矮小)為に、倭と呼びだした」など、

他にもいくつかの説があるのが現状です。

「漢書」に出てきた倭に関する内容

 

漢書地理志の中に、

倭についての記載が見られるのは次の二つです。

1、「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」
2、「會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國 以歳時來獻見云」

 

まず1の文章には何が書かれてあるかというと、

「楽浪郡の海の先に倭人が住んでおり、100以上の国に分かれている。

そして倭人は、毎年楽浪郡に使者を送って献見している」と記載されており、

 

次の2の文章では、

「會稽(会稽)の大海の向こうには東鯷人とうていじんが住んでおり、

20以上の国に分かれており、季節が変わる毎に朝献を行っていた」と記載されています。

 

倭人の方は分かりやすい表現ですが、

2の方には東鯷人という表記がされていますが、おそらく倭人の事を指していると思われます。

 

理由は会稽とは呉の海側に面した所で、

その海の向こうには、現在の台湾や日本しかないからですね。

 

ただこの東鯷人という表記は「漢書」に登場するのみとなっています。

 

 

ちなみに三国志正史の呉志には、

「海の向こうには夷洲と亶州せんしゅうがある」と記載されており、

※夷洲≒台湾、亶州≒日本と言われています。

 

「徐福が秦の始皇帝の命令で不老長寿を求めて海を渡ったけれども戻ってこなかった」

等の記載も合わせてあるので日本についての記載に間違いありません。

孫権は日本・台湾を侵略しようとした事があるの!?

 

 

おそらく前漢の時代、海の向こうの国についての情報が少なすぎて、

倭人や東鯷人といった違った民族のような書き方をしたのかもしれませんね。

 

ただどちらも倭人であったとしても、

1つ目の倭人と2つ目の東鯷人は、集落(小国)の違いはあった可能性が高いと思います。

 

 

そしてこの時から行われた交流がきっかけとなり、

その後長らく魏や晋の時代にかけて交流を続けていくわけですから、

 

三国志時代に訪れた卑弥呼の使者だけに焦点を当てるのではなく、

その交流の始まりの起源を知る事は非常に大事な事だと思いますね。

倭と前漢の間で交流があった証拠

 

1985年に福岡県福岡市で発掘された吉武高木遺跡から、

甕棺墓かめかんぼに入った約140基の墓が出てきました。

 

その140基の中から4基の木棺が発見されましたが、

その中の1基が、木を組み合わせて作られた王墓と思われる木棺が発見されました。

 

この王墓は紀元前1世紀に造られた最古の王墓だと言われています。

木棺の内外から次のものが出てきています。

  • 銅剣2本(内)
  • 銅鏡1枚(内)
  • 銅矛1本(外)
  • 銅戈1本(外)
  • 管玉100個(外)
  • 勾玉1個(外)

 

この中の銅鏡・銅剣・銅矛・銅戈は、

当時の朝鮮半島からもたらされたものだと分かったそうです。

 

九州北部で紀元前1世紀の木棺からそれらのものが発見されたことからも、

倭が楽浪郡に使者を送っていたという中国の「漢書」に見られる記載と一致しており、

「漢書」の記録が正しい事が物的証拠からもきちんと証明されたわけですね。