魏志倭人伝

日本には「万葉集」「日本書紀」という昔の歴史を知るためのものがあるけれども、

 

それより古い時代の日本について、

最も詳しく記載された初めての文献が「魏志倭人伝」なのです。

 

ここで一つだけ注意しておくこととして、

陳寿が完成させた「三国志」の中の「魏志」に書かれているもので、

その魏志の第三十巻「烏丸鮮卑東夷伝」の中に書かれている「倭人条」のことを「魏志倭人伝」と呼んでいます。

 

 

ちなみに倭についての記載がある第三十巻の「烏丸鮮卑東夷伝」には、

烏丸族・鮮卑族・東夷(高句麗・夫餘(扶余)・東沃沮・挹婁・濊・韓・倭)の民族について書かれています。

 

なので「魏志倭人伝」という文献があるのではなく、

漢書地理志・後漢書東夷伝と同じく、「三国志」の中の一部に過ぎないのです。

 

陳寿が書いた「三国志」は、「魏志」「蜀志」「呉志」の三つから成り立っており、

合計65巻で構成されており、約37万字で書かれています。

  • 魏志(30巻/1巻〜30巻)
  • 蜀志(15巻/31巻〜45巻)
  • 呉志(20巻/46巻〜65巻)

 

「魏志倭人伝」は、約2000字程度で書かれており、

当時の邪馬台国の卑弥呼やそれと関係する国について書かれているものです。

 

 

この「魏志倭人伝」は、邪馬台国の場所を知る唯一の手掛かりでもありますが、

今現在も邪馬台国のあった場所は様々な説があるのが現状です。

 

その中でも以下の3つの説が有力視されています。

  • 九州説
  • 畿内説
  • 四国説

 

まぁ九州説・畿内説に比べると、

四国説を唱えている人はまだまた少ないのが現状ですが、

 

私は逆に入れないのが不自然だと思ってますけどね。

「後漢書東夷伝」から見た日本

「魏志倭人伝」に日本(倭)の事が詳細に記録が残されている理由

「魏志倭人伝」には卑弥呼について記載されている事で有名ですが、

 

当時の辺境の島である日本(倭)について、

どうしてこれほど詳細に記録が残されたかというと三国時代の司馬懿に関係しています。

 

もう少し詳細に記載すると、

司馬懿は遼東半島で長らく独立勢力として君臨していた公孫氏を滅ぼしたことです。

二股外交の先に、独立国を夢見た公孫淵

 

公孫氏は、公孫度→公孫康→公孫恭→公孫淵と血脈を繋いでおり、

司馬懿は当時遼東半島を治めていた公孫淵を打ち破っています。

 

司馬懿は、その功績を世に大きく広める為に、

東の島国であった「倭」を利用した可能性があります。

 

 

倭が前漢・後漢の時代にも使者を送っていたことは、

司馬懿ら当時の人々も既に知っていた事であり、

 

公孫氏が遼東半島を支配下におきだした頃から、

倭から魏への使者は完全にストップしていたのが現状でした。

 

そして司馬懿が公孫淵を討って遼東半島での支配を確立したことにより、

再度倭の使者が魏へ訪れるようになり、

 

そのきっかけを作った司馬懿の功績を魏国内の多くの者達に知らしめて、

司馬一族の力を誇示する為に東方の島であった倭についての詳細な記録を多く残させたのです。

 

まぁ一言で言ってしまえば、

「司馬懿様のお陰で、再び倭から訪問させたんだぞ! すごいだろ!」

みたいな分かりやすいものだったんだと思いますね。

大きく三つに分類できる「魏志倭人伝」の内容

「魏志倭人伝」には多くの人達が知っているような当たり前の内容だけでなく、

結構詳細に倭国内についてのことが書かれています。

 

当たり前の内容とは、邪馬台国という国があって

そこを治めたのが卑弥呼という女性であり、多くの国を従えていた。

勿論従えていなかった国もあるけどね。

 

そして中国からの邪馬台国への道のりは、

「こういう風に歩んで進んでいったら行き着くよ」みたいな内容です。

 

その「魏志倭人伝」の内容を大きく分類すると、

三つに分ける事ができます。

  • 邪馬台国への行き方と関係する国々
  • 邪馬台国の風習・特産物・生活模様
  • 邪馬台国と魏の交わりを年代順に記載したもの

魏志倭人伝の内容

「魏志倭人伝」では、

以下のような形で倭についての記載が始まっています。

倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國

 

これは、

「倭人は帯方郡の南東の海の向こうに住んでいて、

山や島を境界にして国や村を作っている。

 

昔は百以上の国が存在しており、前漢・後漢の時代に訪れてきた者達がいた。

そして今現在交流できる国は三十カ国ほどである。」という意味です。

 

その中に卑弥呼が治める邪馬台国があり、

帯方郡から邪馬台国へ行く方法(邪馬台国までの地図)が記載され始めます。

邪馬台国への行程(生き方/地図)

中国が設置していた朝鮮半島にあった帯方郡から

卑弥呼の邪馬台国への道のりは1200里あったそうです。

 

そこから邪馬台国に行き着くまでのルートを通り道にあった国を書きつつ説明されています。

  1. 【陸路】帯方郡から7000里行くと狗邪韓国に到着する。
  2. 【水路】狗邪韓国から南に海を1000里渡ると、対馬国(島)に到着。
  3. 【水路】対馬国から南に海を1000里渡ると、一大国(一支国/島)に到着。
  4. 【水路】一大国(一支国)から南に海を1000里渡ると、末盧国に到着。
  5. 【陸路】末盧国から東南に500里ほど行くと、伊都国に到着。
  6. 【陸路】伊都国から東に100里行くと、奴国に到着。
  7. 【陸路】奴国より更に東に100里行くと不弥国に到着。
  8. 【水路】不弥国から船を使って南に20日程行くと、投馬国に到着。
  9. 【水路&陸路】投馬国から南に水路を10日、そして陸路を1か月行くと、邪馬一国(邪馬台国)に到着。

 

 

ちなみに言っておきますけど、この解釈をそのまま受け取って場所を突き詰めると、

とんでもない場所に行ってしまうので注意です。

 

そもそも不弥国から距離の目安が「里」から「日付」に代わっているので、

推測がアバウトになりすぎてはっきりとした位置をつかめないものになっています。

 

これが邪馬台国の場所が未だに特定できない一つの要因となっており、

様々な説を生み出す原因にもなっています。

 

 

多分ですけど、司馬懿の功績を高めるために、

「中国と倭に行き来は結構大変なんだよ」みたいな意味合いを持たせて、

はっきりした位置を分かりにくくしたのかもしれませんね。

 

なので3世紀頃の日本(倭)についてのことが詳細に残されたのも、

司馬懿のお陰であると言えるとともに、

 

邪馬台国という国の場所が現在もはっきりしていないのも、

司馬懿のせいになってしまいますね。

 

良い意味でも悪い意味でも司馬懿は、

この頃の日本の歴史を後世に伝える事に貢献してくれたわけです。

 

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