王叔和(王煕)と王粲
王叔和は、正確には姓名を王煕、字を叔和といいますが、
ここでは王煕ではなく、王叔和で呼ばせて頂きます。
王叔和は180年前後に生まれとされており、二十歳前半の頃には、
後に「建安七子」と呼ばれることになる王粲と荊州で共に暮らしていました。
荊州で王粲と共に暮らす前のはっきりした記録がないので、
はっきりとしたことは何もいえないですが、
王粲も王叔和も兗州山陽郡高平県出身で、
年齢も三つしか離れていないので、
故郷から王粲と常に行動していた可能性は高そうな気はします。
なので王粲の荊州に移り住むまでをまず見てみましょう。
王粲は董卓の長安への遷都が行われた際に長安に移り住んでおり、
その後17歳で三公であった司徒に招かれ、黄門侍郎に任じられるも、
引き受けずに流浪の旅に出ています。
そんな王粲が流れ着いた先は、
当時学問の都市として平和を維持していた荊州でした。
荊州に移り住んでからの王粲は、
劉表に仕え、劉表が死んだ後は劉琮に仕えています。
なので同じ出身地の同族であり、荊州で共に住んでいた事を考えると、
高い確率で行動を共にしていたと考えるのが自然でしょう。
ちなみに208年に曹操が荊州へ攻め込んだ時に、
王粲は劉琮に降伏を勧めた一人であり、
主君であった劉琮が降伏した後は曹操に仕えています。
一方の王叔和はというと、少し遅れて213年に曹操に仕えていますね。
王粲と王叔和が同じタイミングで曹操に仕官したという説もありますが、
私の考えとして別々に仕官したと考えています。
ただ圧倒的にそのあたりを推察するにしても参考にする資料が少なすぎますね。
曹操に医術の腕を認められた王叔和
曹操に仕える事になった王粲と王叔和ですが、
213年に王粲は「待中」に任じられた事で、曹操の側近にまで出世しています。
一方の王叔和の方は、曹操によって医術の腕を高く評価されて、
医者の最高地位であった「太医令」に任じられました。
王叔和は戦地に医者として共に赴くことが多かったようですが、
これが意味する所として、
戦場では疫病が流行ることが多かったからですね。
265年に司馬懿の孫である司馬炎が、
「魏」を滅ぼして「晋」を建国すると、
王叔和は太医令を退いて隠居してしまいます。
ちなみに王叔和は、
「太医令」の立場を利用して、
多くの医術に関する文献や資料を収集していました。
隠居してからはそれらをきちんとまとめ直し、後世へと伝えようと考えたわけです。
その中には、張仲景の「傷寒雑病論」や華佗の書物もあったのは余談です。
王叔和の「二つの偉大な功績」
王叔和はまだ医術という立場が、
評価を受けていなかったこの時代ではありましたが、
医術の最高位である「太医令」にまで上り詰めています。
ただ王叔和が後世の人々に高く評価されている点は、
王叔和が残した偉大な書物「脈経」、
そして張仲景が書いた「傷寒雑病論」をまとめなおして後世に伝えた事だとされています。
「脈経」
「脈経」とは、中国で伝承されてきた医書の中から、
脈に関連する所のみを抜き出して整理・総括した書物のことをいいます。
抜き出したものは、伝説上の医者でもあった岐伯から、
三国時代を生きた華佗の脈に関する知識まで多くのことが取り入れられました。
また「脈経」にはそれだけではなく、
王叔和自身の知識も盛り込まれていますね。
「脈経」は、
完璧と言っていい程の素晴らしい出来上がりであり、
「脈学の経典」として最高峰の評価を受けています。
「脈経」以外には、次のものが同等の評価を受けています。
- 黄帝内経
- 神農本草経
- 傷寒論
- 針灸甲乙経
傷寒論
三国時代に生きた張仲景が著した「傷寒雑病論」は、
中国が戦乱期であったこともあり、
たったの十年程度で散逸してしまいます。
しかし王叔和が「太医令」に任命された事が功を奏し、
散逸していた「傷寒雑病論」を集めなおしてまとめ直したのです。
そして時が進み、
林億・孫奇らによって「宋版傷寒論」として再度まとめなおされ、
それが現在に伝わっています。
もし王叔和が散逸した「傷寒雑病論」を編纂しなおしていなければ、
張仲景の「傷寒雑病論」は、
華佗の「麻沸散」のように今の人達が知る由もないものになっていたでしょうね。
王叔和に対する後世の評価
宋の時代に「診察に誤診なし」
と言われるほどの名医であった成無已は、
1090年代から、
王叔和の「傷寒論」に全面的な注釈を加え、
四十年をかけて「注解傷寒論」「傷寒明理論」を書き上げています。
ちなみに「注解傷寒論」「傷寒明理論」が、
現在に残る最古の「傷寒論」の全注本になっており、
「傷寒論」を学ぶ上でのバイブルになっています。
そして成無已は、
「張仲景の書が書かれてから千年が経つが、
今に伝わっているのはまさに王叔和のお陰である!」
と言ったと伝わっています。
また清時代の名医と呼ばれた徐霊胎は、
王叔和の編纂した「傷寒雑病論」に文句を言う者がいた際に、
「馬鹿者! 王叔和より後の医者であるお前達が、
王叔和に対して文句を言うのは筋違いじゃないか!」
と王叔和を擁護した逸話も残っていたりします。
「傷寒論(傷寒の部分)」「金匱要略(雑病の部分)」
を現在読むことができるのは、
王叔和が編纂して後世に伝えてくれたからにほかなりません。
そんな乱世の中で精一杯に医術の道に生きた王叔和でしたが、
九十歳でこの世を去ったと言われています。