息子であった全琮(ぜんそう)の父親の全柔について、
ここでは見ていきます。
全柔はどんな生涯を送ったのでしょうかね?
全柔(ぜんじゅう)
全柔はもともと霊帝の元で、尚書郎右丞に任命されていました。
そしてその後も霊帝の元で仕事に励んでいましたが、
董卓が台頭して、やりたい放題の政治を行うと、
これに嫌気を刺した全柔は、官位を捨てて故郷であった揚州呉郡へ戻ります。
官位も何もかも捨てて帰郷した全柔でしたが、
彼の才能をそのまま終わらせるのが残念だと思った揚州の役所の者達は、
役人として全柔を雇い、別駕従事に任命します。
そして全柔が雍州で別駕従事をやっている事が中央にも聞こえると、
中央より会稽東部都尉に任じました。
「中央にはもう戻ってこないのかもしれないけど、
地方でもいいから国の為に頑張ってくれ」って意味合いだったのでしょう。
孫策への仕官
孫策が劉繇を破り、呉郡を治める許貢を打ち破って支配下に置くと、
全柔は孫策の将来性を見抜いて、真っ先に臣従を申し込んで配下になります。
全柔が見抜いた通り、孫策は王朗が治める会稽郡を制圧し、
劉勲を撃破するなど勢力を拡大していきました。
全柔が高く評価できる点は先見の明が高く、自分の直感を信じてすぐに行動を起こせた点です。
孫策亡き後は孫権に仕え、最終的に桂陽太守まで昇り詰めています。
全柔と全琮の逸話
全柔が息子の全琮に対して買い物に行かせたことがありました。
それは呉郡へ行って米を売り、
その代金で自分たちの必要なものを買ってくるというもので、
父親に命じられた全琮は、船に米を積んで呉郡へ行ったわけですが、
全琮は米を売るどころか、呉郡にいた人々に米を無償で分け与えたのです。
全柔は全琮から米を分け与えた事を聞いて激怒します。
まぁ全柔からしたら当たり前の反応ですよね。
それに対して全琮は、父親に対して謝りながら、
「私が無償で米を分け与えた理由は、
呉郡の人々は明日をも生活ができないほど多くの者達が苦しんでいる状況でした。
そしてはっきり言わせてもらうと、父上が買ってこさせようとしたものは、
緊急的に必要なものでもありませんでした。
だから私は父親の確認を取らず、持っていた米を迷わず配ったんです。」と答えたそうです。
これを聞いた全柔は、米を勝手に配った事に対する怒りも忘れ、
全柔が呉郡の人々の為にやったことを誇りに思うのでした。
それと同時に、全琮が将来大物になる器の持ち主だと直感したといいます。
実際全琮は、全柔が予想した通り頭角を現しました。
孫権の娘であった孫魯班を娶り、最終的に大司馬まで出世しています。
全琮の行動に対する賛否両論
全琮が行った行動は立派なものではあるけれども、
父親の資産であった米をあたかも、
自分の物であるかのように扱ったのは問題というものです。
米を分け与えた事によって、父親であった全柔の評判をあげることもなく、
逆に米を分け与えた全琮の評判のみが上がったのですから当然と言えば当然ですね。
龐統が劉備の評判を上げるために、
借金のある人で明らかに返せない人の借金を無しにして、
劉備の評判を上げた話とかもありますが、
全琮の行った事で何かを得たのは全琮だけであって、
父親であった全柔は何も得る物はなかったのですから似たような話であっても中身が全然違うわけです。
まぁ全柔としては、息子の非凡さが分かっただけで、
十分に満足した可能性は否定できませんけどね。
金や物に代えれない者って世の中沢山ありますから・・・