贋書の計(がんしょのけい)が用いられた経緯

三国志の中でこの計略ができてるのは、三国志演義での話になります。

 

新野の劉備に仕えていた軍師の徐庶によって、

新野攻略に乗り出した曹操軍は大きな痛手を被ってしまいます。

 

 

この時、曹操よりに3万の兵での攻略を命じられた曹仁が、

 

先鋒隊として呂曠・呂翔に5000人を預けて攻めさせますが、

徐庶の作戦によって見事に打ち破られて二人は討死。

横山光輝三国志より(20巻166P・167P・168P)画像引用

 

 

これに怒りを覚えた曹仁は、李典と共に25000人を引き連れて、

 

劉備に勝負を挑むのですが、

この際も徐庶の作戦によって完膚なきまでに叩かれてしまいます。

 

またそれだけでなく、樊城まで曹仁は奪われてしまったわけですね。

この時の劉備の兵力は2000人程度だったといいます。

横山光輝三国志より(20巻209P)画像引用

程昱によって発案された「贋書の計」

曹仁らが少数の劉備に惨敗を喫したわけですが、

それ以上に曹操が興味を持ったのは徐庶という軍師の存在でした。

 

優れたものをこよなく愛することで有名な曹操ですが、

なんとか徐庶を味方につける方法がないか思案にくれます。

 

この時に曹操に仕えていた程昱によって考え出されたのが、

贋書の計がんしょのけい」になります。

 

 

徐庶と程昱は、幼い頃からの知り合いということもあり、

徐庶の性格を良く知っており、母親想いであったことを利用しようとします。

 

まず徐庶の母親を都に呼び寄せて人質にする形で、

徐庶に劉備の元を離れて、曹操の元にくるように手紙を書かせようとしました。

 

「母親想いである徐庶は、母親からの手紙には素直に従うだろう」

と程昱は考えたわけですね。

最後まで親孝行の道を貫いた徐庶

徐庶の母(賢母)

程昱によって徐庶の母親は都を訪れたわけですが、

母親は徐庶を呼び寄せることはなく、曹操に逆らう事で死さえも覚悟していました。

 

それほど徐庶の母親にとっては、

仁君として有名な劉備に仕えてくれている事が心の底から嬉しかったのでしょうね。

 

 

徐庶の母親が徐庶を呼び寄せようとしないことに対して、

 

程昱は少し作戦を変更し、

徐庶の母親を自分の親のように大事に世話をします。

 

これに感謝した徐庶の母親は、お礼の気持ちを込めて手紙を書きます。

横山光輝三国志より(21巻51P・52P)画像引用

 

 

その手紙を見た程昱は、その筆跡を真似させて手紙を書き、

あたかも徐庶に向けて書いたように仕向けます。

横山光輝三国志より(21巻53P)画像引用

 

 

これを受け取った徐庶は、

劉備の元を離れて曹操の元を訪れるわけです。

 

この時に自分の代わりといって、劉備に紹介したのが諸葛亮(孔明)でした。

三顧の礼

母親との再会と悲劇

徐庶が都を訪れて母親に会うと、

母親は劉備への忠義を捨てて都を訪れた徐庶を激しく叱責します。

 

都を訪れた事は、曹操に仕える事を意味していたからです。

 

母親から叱責を受けた徐庶は、申し訳ない気持ちから後悔しつづけます。

横山光輝三国志より(21巻105P)画像引用

 

 

そして徐庶の母親は、

 

「自分がいたばかりにこんなことになってしまった・・・」

と自分を責めて自殺してしまいました。

横山光輝三国志より(21巻107P)画像引用

 

 

曹操に仕える事になってしまった徐庶ですが、

心は常に劉備の元にあり、曹操の為に献策する事はなかったそうです。