徐庶(じょしょ)

徐庶は、もともと徐福という名前で、

単家(庶民の家)の子として生まれます。

 

若い時の徐庶は武芸に励み、

剣の遣い手という経歴の持ち主で・・・

 

 

そして徐庶は義侠心に厚い人物だったこともあり、

幸か不幸か仲間の仇討ちを頼まれて引き受けたことがあったりします。

 

その結果として罪人として役人に捕まってしまいますが、その後に仲間によって救助されたわけですが、

やっぱり役人に捕まるわけなんで不幸でしょうね。

 

 

それからの徐庶は、これまでの考えを悔い改めて、

学問を学ぶ為に荊州へ移住!!

 

そして司馬徽(しばき)に弟子入りして、

荊州学を学んだのでした。

 

この時に諸葛亮をはじめ、多くの知識人達と徐庶は交流してます。

 

 

余談ですけど、荊州で荊州学という学派ができたのには、

各地から戦乱を避ける為に荊州に避難してきた学者が数多くいたことがまず第一の理由で、

 

それにプラスして荊州を統治していた劉表が、

その学者達を厚遇したのがきっかけとしてできあがったよ学派になりますね。

劉備に仕官

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劉備が荊州へ流れてくると、

劉備は劉表によって新野を任される事になりました。

 

そんな折に、劉備と徐庶は出会う事になるのですが、

劉備を気に入った徐庶は劉備に仕官します。

 

 

そしてこの時に、諸葛亮(孔明)を劉備に推薦していますが、

「諸葛亮を呼び寄せる事は無理なので、

どうしても会いたい場合は、こちらから出向かないといけません」

と劉備に助言したようです。

 

そのように徐庶が劉備に言った理由として考えられるのは、

諸葛亮という人物が人に簡単に仕えるような人物ではなかったのを知っていたからでしょうね。

 

 

 

この言葉を聞いた劉備は、

諸葛亮に会えるまで何度も訪問するわけです!

 

結局劉備が諸葛亮と出会う事ができたのは三回目だったわけですが、

この時出来た言葉が、かの有名な「三顧の礼」なわけです。

三顧の礼

 

そしてこの時に「天下三分の計」の話を劉備にしたと伝わってたりしますけど、

当時の知識人ならば諸葛亮でなくても、天下三分の計の発想は普通にできたと思いますね。

 

夢ないですけど結構それが現実なわけで・・・

 

 

それに天下三分の計を諸葛亮が最初に考案したように思い込んでいる人も多いですが、

劉邦項羽時代から天下三分の計(劉邦・項羽・韓信)の話はあったりしますし、

 

三国時代では呉の魯粛が、

最初に天下三分の計を語ったといわれてます。

 

 

まぁこのあたりの勘違いがされている大きな理由として、

単純に三国志演義の影響を受けてる人が多いからでしょう。

「天下三分の計」の発案者は孔明じゃなかった!?

 

 

 

また三国志演義の影響を受けている最も大きな所としては、

 

徐庶が曹操からの計略にはまる形で、

劉備の元を去る際に諸葛亮を紹介したという点だと思います。

 

実際は徐庶が去るタイミングでの紹介ではなく、

同じ時間列で劉備の元に在籍しちゃってたりするのが正直な所なわけで・・・

曹操に仕官

徐庶と諸葛亮が劉備に仕えた後に、

 

曹操が南下を始め、長坂の戦いで曹操に敗れた際に、

徐庶の母親が捕らえられてしまうんですね。

 

 

曹操に呼び出されて偽の手紙を書かせたとか、

それはもろに三国志演義からの影響を受けてるんで悪しからず・・・

 

兎にも角にも母親を大きく心配した徐庶は、

母親の為に劉備の元を自ら去る決意をしてます。

 

 

なのでもし長坂の戦いで徐庶の母親が捕らえられるようなことがなければ、

生涯徐庶は劉備に仕えた可能性は高く、

 

劉備が益州を獲得した際には、

諸葛亮と共に蜀を支える人材に間違いなくなっていたでしょう。

 

 

もしかすると益州侵攻の際には徐庶が付き従い、龐統が死なない未来があったかもしれません。

 

歯車が一つ狂うと全てが狂ってしまうことなんてよくあることですから・・・

 

 

 

話がIF(もしも・・・)の話になってきたので話を戻すと、

こういった経緯から徐庶は曹操に仕える事になってしまったのでした。

 

ただ徐庶が曹操に仕えてから、

目立った活躍はほとんどしていません。

 

 

ただ母親と共に過ごしながらも、徐庶は順調に出世していきました。

 

儒教の考えとして親を大事にすることは何より大事とされていた時代でしたので、

徐庶も母親に尽くしたのでしょうね。

 

 

そして諸葛亮が五丈原で没した234年という同じ年に

徐庶も彭城で亡くなったようです。

 

 

同じ時に劉備に仕え、

立場は違えど同じ年にこの世を去った二人、

 

個人的にはというかかなり運命じみたものを感じてしまいます。

三国志演義での徐庶

正史では際立った活躍もなかった徐庶ですが、

三国志演義では劉備の元でものすごく活躍しています。

 

 

徐庶は単家(庶民の家)生まれでしたが、

 

その「単」という漢字を、

徐庶の「姓」だと間違えられていたこともあり、

劉備と出会ったと時は「単福」と名乗っていたのでした。

 

徐庶が劉備の元でどういった活躍をしたかを紹介してみますが、

これまでの劉備からは想像できないような勝利に導いてる感じですね。

 

曹操が南下を開始してきた際に、五千の軍勢を率いた曹仁・李典の先鋒隊を、

徐庶はたったの二千の兵士で勝利!!

 

 

そして曹仁・李典は、

更なる兵(2万5千人)を率いて攻めてきます。

 

この時に曹仁は「八門金鎖の陣」を敷きますが、

徐庶はこれをあっさり見破り、またしても大勝するわけで・・・

 

つまり徐庶は、

華々しいデビュー戦を飾ったわけですね。

 

 

徐庶の采配で二度も撃破された事を知った曹操は、

それほどの高い才能を持っている徐庶を味方につけたいと考えたのでした。

 

そこで程昱が徐庶の母親の字を真似て、

偽手紙を出し、曹操軍に引き込もうとするわけで・・・

 

またその手紙を受け取った徐庶は、

曹操・程昱の狙いにハマる形で劉備の元を去っていくことになります。

 

 

そして自分の代わりといって、

諸葛亮を推薦した綺麗な流れになってます。

赤壁の戦いで垣間見せる推察

赤壁の戦いでは、龐統が連環の計を曹操にしかけますが、

曹操に同行していた徐庶は、これが曹操を倒す為の策だとあっさり見抜きます。

 

ただ徐庶の母親は劉備の元を去って、

曹操の元へ来たことにショックを受けて自殺した事件があり、

 

「曹操の為に計を用いることは決してない!」

と心に決めていた徐庶は、龐統の策に気づかないふりをします。

 

 

ただ敗北すると分かっている曹操陣営の中に、

このままいると孫権・劉備軍の攻撃によって巻き添えを食らってしまう為、

 

涼州の反乱に備えるという名目で、赤壁の地から見事に差っていったのでした。

 

その後の徐庶の活躍は見られません。

諸葛亮の徐庶に対する評価①

魏に仕えていた徐庶は、

右中郎将・御史中丞を歴任しています。

 

 

諸葛亮が後になって徐庶の官位を知った際に放った言葉は、次のようなものでした。

 

「徐庶ほどの人物でさえ、

その位の官位にしかつけないとは信じられない。

 

魏にはどれだけ優秀な人材がいるのだろう」

と徐庶の才能が活かされていない事を嘆いたそうです。

諸葛亮の徐庶に対する評価②

諸葛亮が丞相になった時に、部下に対して次のような事を言っています。

 

職務を携わる者は、

色々な人の意見を参考にしなければならないものだ!

 

意見が違うからといって、その意見に耳を傾けないようならば、

仕事に欠陥を生じてしまうものである。

 

そして異なる意見が他から出た時は、

きちんと検討しなおしてこそ適切な対応ができるものである!

 

これは簡単なようで、

誰にでもできることではない!!

 

 

ただ徐庶だけは違った・・・

 

 

もし徐庶の十分の一でも真似することができたなら、

 

国家に対しての真の忠義の行いであり、

私の過失も非常に少なくなるだろう」と・・・

 

 

他にも「荊州で崔州平と交友があった頃、

私に欠点があった際は、その欠点を遠慮なく指摘されたものだ!

 

その後徐庶と出会って、

私自身徐庶から色々な事を教わった!!」とも話した逸話も残ってたりしますね。

徐庶の個人的な評価

 

曹操の元で大した活躍もなかったことが、

私として、非常に残念でたまりません!!!

 

 

「劉備への忠義」「親への孝行」

どちらも大事にできてればいう事はないですが、

 

こういう時代だからこそ、

どちらかしか選べなかったのだと思います。

 

ですが、母親を生涯大事にし、天寿を全う出来た徐庶は、

ある意味幸せだったのかもしれません。

 

 

ただ諸葛亮が蜀で頑張ってた姿を、

徐庶はどういう気持ちで見守ってたのでしょうね。

 

 

もし劉備の元を去っていなければ、

 

諸葛亮と力を合わせ、魏を倒そうと頑張っていた自分の姿が、

脳裏に浮かんでいたのかもしれませんね。