天下三分の計(てんかさんぶんのけい)

 

三国志で「天下三分の計」といえば、

劉備の軍師になった諸葛亮が劉備の為に天下を統一する為に説いた計略です。

 

 

諸葛亮(孔明)は、北は曹操、南東は孫権が地盤を維持しており、

 

この二人に対抗する為には、

孔明は北・南東ではない第三の地盤を築くことが大事だと考えました。

 

 

当時の劉備は、荊州の劉表にお世話になっている身でしたが、

まずはここを奪い取る形で荊州を手中に収め、最初の地盤を築く事が大事であり、

 

それから劉璋が治める南西地方の益州を奪い取ることで、

天下統一も夢ではないと劉備に助言します。

 

そうすることで、天下を競う事が可能になるというものでした。

 

 

これは劉備が諸葛亮(孔明)を迎えるべく、

 

襄陽の外れにあった隆中りゅうちゅうを三度目に訪れた時に劉備に話したことから、

「隆中策」と呼ばれたりもしています。

 

当時の孔明は、劉備に仕えようとは考えてはいませんでしたが、

三度も自分の元を訪れてくれた劉備に対してのお礼の意味を込めて話した戦略でした。

 

しかし劉備の熱い想いに打たれた孔明は、劉備に仕える事を決意し、

天下三分の計を実現の為に孔明は邁進していくわけです。

「天下三分の計」の為の第一段階

 

劉備は孔明を軍師として迎えたものの、

劉備と同族であった荊州の劉表や跡を継いだ劉琮から荊州を奪い取ることをしませんでした。

 

これにより孔明が思い描いた天下三分の計は、

なかなかスタート地点にすら立てない状況が続くことになります。

 

 

また曹操の南下に従って、劉琮は曹操に降伏してしまい、

劉備は曹操に追われる形になってしまいます。

 

孔明は苦境に陥っている劉備を救うべく、

起死回生の為に呉と同盟を結び、赤壁で曹操に勝利するのでした。

 

 

曹操に勝利した孫権・劉備連合軍でしたが、

孔明はまず第一段階を達成する為に、曹操領となっていた荊州南部へ侵攻を開始。

 

そして破竹の勢いで荊州南部の四郡を制圧。

 

荊州全土とは言えませんでしたが、

これによって劉備は天下三分の計の最初のスタート地点にやっと立てたのでした。

「天下三分の計」の為の第二段階

 

荊州南部に地盤を形成することになんとか成功した孔明でしたが、

次に天下三分の計の実現の為に劉璋が治める益州への侵攻を開始します。

 

この戦いで劉備軍は龐統を失う等の痛手を負いながらも、

最終的に益州平定に成功。

 

その後、漢中へ攻め込んで漢中を曹操から奪い取ることにも成功。

 

これによって長らく放浪を続けてきた劉備でしたが、

曹操・孫権に匹敵する領土を獲得できたことで孔明の天下三分の計が実現します。

⑩劉備が益州攻略を成し遂げ、天下三分の計の実現

 

 

ただ実際には、孔明の天下三分の計が実現した背景には、

周瑜が考えた天下二分の計が実現しなかったことが大前提としてありますが、

 

結果的に劉備・孔明らは、天下三分の計を実現させたのでした。

周瑜が描いた益州攻略からの「天下二分の計」

「天下三分の計」が初めて中国史に登場するのは?

天下三分の計が最初に中国の歴史書に登場するのは、

劉邦と項羽が天下統一を競っていた時代に登場しています。

 

劉邦の元には、戦の天才であった韓信という者がいましたが、

戦うところ敵なしで、項羽を追い込んでいきます。

 

とりあえず「国士無双」と呼ばれた韓信は、

中国史上一番の戦上手だった可能性が高いと言っても過言でないほどの人物です。

 

私自身は、少なからずそう思ってます。

 

 

韓信は自分を重く採り立ててくれた劉邦に天下を取らすべく頑張っていましたが、

ある時韓信の食客だった蒯通かいとうが、韓信に劉邦から独立するように進言します。

 

 

蒯通が韓信に独立を勧めたのには理由があり、

 

韓信が今現在輝いているのは、劉邦と項羽が争ってるからこそであり、

劉邦が天下を統一した後、韓信に劉邦は恐れをなしていくと考えたからです。

 

それならすぐに項羽を滅ぼすのではなく、

ここで一旦独立して天下を三つに分けた方がいいとの提案でした。

 

そして最終的には韓信が天下を取るという構想です。

 

 

これが中国で最初に登場した天下三分の計の話になります。

横山光輝史記(12巻205P・206P)より画像引用

 

ちなみに韓信は劉邦を信用しており、結果的に裏切ることはできませんでした。

そして韓信の指揮のもと、劉邦は項羽を滅ぼして天下統一を果たします。

 

しかし蒯通が韓信に進言した通り、

天下統一を果たした劉邦は韓信の力を大いに恐れ、最終的に韓信は処刑されてしまいます。

 

 

韓信は死ぬ直前、

「蒯通が言った通りにしなかったばかりに、こうなってしまった・・・」

と大いに嘆いたそうです。

横山光輝史記(13巻63P)より画像引用

 

 

ちなみにですが、

蒯通は劉表や曹操に仕えた蒯越・蒯良の先祖だと言われています。

「天下三分の計」の発案者は孔明じゃなかった!?

「天下三分の計」実現からのその後・・・

 

荊州南部・益州・漢中を手中に収めた劉備でしたが、

ここで孔明にとって予期せぬ事が起こってしまいました。

 

荊州を守っていた関羽が魏呉との戦いで敗れ、荊州を完全に失ってしまいます。

この敗戦によって関羽は処刑されました。

 

旗揚げ時から関羽と苦労を共にしてきた劉備・張飛は、

関羽を処刑した呉を激しく恨み、趙雲など多くの臣下が反対する中、呉討伐の軍を起こします。

 

 

「天下三分の計」はそもそも呉と争うのではなく、

呉と協力して魏を倒すことが根本にあった計略でもあったのですが、

 

関羽を殺された劉備・張飛の恨みを止めれる者はいませんでした。

 

しかし関羽の復讐戦に燃えていた張飛は、

戦いの直前に臣下の范彊はんきょう張達ちょうたつの裏切りにあって首を取られてしまいます。

 

また劉備自身も夷陵の戦いで陸遜の火計に大敗を喫し、

それから間もなくして白帝城で亡くなっています。

 

 

荊州を失ってしまったことは、孔明にとって大きな誤算でもありました。

 

孔明にとって荊州と益州二方面から魏へ侵攻し、

呉との協力関係の元、魏への同時進行を考えていたからです。

 

 

しかし荊州を失った事で、孔明は益州からの道しか

選択肢としてなくなってしまいます。

 

それでも孔明は、劉備の悲願を達成すべく、

劉備の跡を継いだ劉禅の元で、孔明は五度の北伐の軍を起こしますが、

 

天下統一を果たすことはできずに、最後は五丈原で陣没してしまいました。

⑮諸葛亮の北伐(第1次〜第5次)

 

 

孔明亡き後も蜀は約30年間に渡って蜀という国を維持しますが、

最後は鍾会・鄧艾によって攻め込まれ、劉禅が降伏したことで三国時代の幕が下ります。

 

これによって孔明が描いた「天下三分の計」実現からの天下統一への夢は

完全に潰えたのでした。

 

ただ魏呉蜀の三国に分かれて沢山のドラマが生み出されたからこそ、

今日でも三国時代に魅入られた人達が多いのでしょうね。