諸葛亮が劉備の意志を引き継ぎ、

劉備亡き後の劉禅を支えて、魏を打つべく出陣した戦いである北伐!

 

諸葛亮は北伐を開始するにつけて事前から魏を調べつくし、

下準備をいくつもしながら開始したわけです。

 

 

諸葛亮は生涯を通じて五度北伐をしていますが、

もっとも北伐成功の可能性が高かったのが第一次北伐でした。

 

 

そんな中で魏蜀の板挟みにあいながら、

散っていった人物に孟達という人物がいましたが、

 

孟達の叛意が魏に知られてしまい、司馬懿によってあっさりと鎮圧されてしまいます。

 

そして情報漏洩したのは孟達が司馬懿を甘く見過ぎたからだと思われていますが、

しかしそこには諸葛亮の影が・・・

第一次北伐に関しての諸葛亮の下準備&北伐開始

諸葛亮が益州南方の大規模反乱を鎮圧して後、

ここぞといわんばかりに諸葛亮は北伐へと乗り出します。

 

この時に劉禅に上奏した「出師の表」は有名な話です。

 

 

ただ戦力的にも大幅に劣る蜀が、

「魏に打ち勝つためにどうしたらよいのか?」と考え、

 

北伐を成功させるために大きく三つの下準備をしていていました。

  • 元蜀将であった新城太守(元房陵・上庸・西城の三郡が統一された郡)であった孟達の裏切りを誘う
  • 涼州(馬岱など)と関係がある涼州の反乱を誘う
  • 蜀に対しての防備も手薄であることを調べる

 

そして諸葛亮は北伐で勝利を得られる可能性が出たことで、

これをもって北伐を開始したのでした。

 

 

そして案外知られていませんが、

 

諸葛亮は北伐成功の可能性を更にあげるべく、

魏が完全に正月準備に追われて油断している正月付近を見計らって攻め込んでいます。

 

今でもそうですが、

年越しの準備をが忙しいのは当時から当たり前の事でした。

 

 

魏は正月モードに入りつつあったことも合わせて、

蜀との戦いで劣勢を強いられての開始になったわけですね。

諸葛亮が第一次北伐をおこした228年正月の正式な時期はいつ?

ちなみに諸葛亮の第一次北伐は228年正月とされています。

 

この正月というは正確な時期は、

もともと中国では、12月末頃が正月だとされていました。

 

現在1月1日が日本の正月なので大体同じ時期だと言えますね。

 

 

微妙なずれとして、当時の暦と現在の暦に関して、

 

多少のずれはあったと思いますから、

ほとんど1月1日あたりが正月だと思ってもらっていいと思います。

 

 

ただこの正月の風習は前漢まではこの12月末という時期だったのですが、

後漢時代から立春にあたる2月初めあたりを正月としたようです。

 

なので諸葛亮が魏に本格的に攻め込んだ時期は、

228年1月末~2月初めと思ってもらっていいかなと思いますね。

諸葛亮の誘いに乗るか乗らないか迷う孟達

 

横山光輝三国志(52巻20P)より画像引用

 

諸葛亮は魏を討つべく漢中へと軍を進めたわけですが、

ここで一旦軍を休ませていますね。

 

その間にまず新城の孟達に反乱を起こさせています。

 

 

実際は「孟達を反乱せざるを得ない状況に追い込んた」といった方が自然でしょうね。

 

実際のところ、孟達自身も魏に反乱を起こすか悩んでいたところに、

迷いながらも諸葛亮の甘い誘いに乗ってしまった形でした。

 

 

孟達は諸葛亮とのやり取りで、

「洛陽と新城郡は1200里離れているから、

反乱が気づかれて攻撃されるにしても1か月ほどかかる」

と言ってなかなか反乱を起こそうとしなかったからです。

 

諸葛亮としても孟達に反乱を起こさせて、注意を孟達に向けさせたうえで、

諸葛亮は注意が更に薄れている西側からの侵攻を開始しようと考えていたのでしょう。

 

 

三国志演義に記載されている諸葛亮が長安へ攻め込んだ際に、

孟達が洛陽方面をついて魏を崩壊させるみたいな都合の良い書かれ方をしていますが、

 

そもそも孟達の反乱が明らかに先ですし、

諸葛亮が魏へ攻め込んだのは孟達が死んだ後の話ですからね。

 

 

他にも孟達から諸葛亮に「降伏したい!」といった手紙が届いたように記載されていますが、

あくまで諸葛亮は陽動作戦の上で孟達を誘ったのが正確な所ですし、

 

三国志演義では蜀を裏切った孟達を悪者として都合の良いように書かれています。

諸葛亮の暗躍(情報漏洩)

なかなか反乱を起こしてくれない孟達に対して、

諸葛亮はおそらくイライラして強硬策に出ます。

 

この時に孟達は、魏興太守であった申儀との関係が悪化しており、

ここに諸葛亮は目を付けたわけです。

 

 

三国志演義では、孟達は司馬懿を甘く見過ぎており、

申儀・申耽など一緒に魏に降った者達に声を掛けたはいいものの、

 

魏に反乱を起こしたくないと考える申儀・申耽が裏で司馬懿と通じ、

司馬懿が予想だにしない八日というスピードで攻め込んできたみたいに描かれています。

 

 

だからこの印象を持っている人が多いかもしれませんが、

孟達が魏に降伏した際に従ったのは申耽の弟である申儀のみでした。

 

兄の申耽は劉封の元に留まっており、

その後、新城太守に任じられた孟達らによって攻められてから申耽は降伏しており、

 

降伏した申耽は申儀とは別の場所を守らされています。

上庸と離れた南陽郡の地を・・・

 

兄弟が敵になりつつも劉備に忠誠を尽くした申耽を申儀と共に前線においていては、

「また何らかの際に裏切る可能性も・・・」と考えていたのでしょう。

 

魏としては孟達と共に早々に降った申儀の方に信頼を置いていたのは間違いないですね。

だから孟達の新城と近い魏興を守らせたのでしょう。

 

 

そして孟達の話に戻すと、

諸葛亮はなにがなんでも孟達に魏を裏切らせるために、

 

「孟達が蜀と通じてますよ!」

といった話を申儀の耳に入れるべく故意に仕掛けたのでした。

 

 

これは「晋書」に記載されていることですが、

 

諸葛亮が郭模といった人物に偽の降伏をさせて、

孟達の裏切りの話を申儀に伝えたと書かれているからです。

 

孟達との関係が悪化していた申儀は、

この郭模の話に疑いを持つこともなく、すぐに曹叡へと知らせていますね。

 

 

諸葛亮としては反乱をなかなか起こしてくれない孟達に対して、

失敗してもいいから反乱を起こさせる為に強硬策に出たのでしょう。

 

孟達の反乱がうまくいくにこしたことはないけども、

最悪失敗したとしても蜀にとっての痛手は全くないのですから、

 

反乱を起こさないぐらいなら、

反乱を起こさせて注意を東に向けてくれるだけでいい・・・

 

そんな考えでの策だったのでしょう。

反乱せざるをえなくなった孟達

横山光輝三国志(52巻47P)より画像引用

 

申儀の話を聞いた曹叡は、まず孟達の任を解いて洛陽へ来るように命じます。

 

 

実際諸葛亮と通じることを最後まで悩んでいた孟達は、

急遽洛陽への呼出し命令を受けて、諸葛亮と通じていることがばれたと判断したのでしょう。

 

孟達は227年の12月に追い込まれた形で反乱を起こします。

 

 

慌てて反乱を起こしただけに、

防衛準備などの前段階であり計画性がないものでした。

 

しかし孟達としては司馬懿が攻め込んでくるにしても1か月はかかると踏んでいただけに、

それまでになんとか防衛準備を整えられるだろうと考えていたわけですが、

 

司馬懿が僅か八日で攻め込んで来たものだから防衛準備も中途半端で孟達は慌てまくります。

 

 

ここで孟達が何故一か月もかかるかと推測していたかというと、

司馬懿が軍を動かすにしても、曹叡にまず許可を取ってからしか動かせないと踏んでいた為です。

 

 

しかし司馬懿は緊急を要することだったために、

 

許可を取る事よりも優先して孟達討伐の為に軍を進めたことで、

孟達の予想を大きく上回る日程で到着したわけです。

 

 

そして孟達と司馬懿の戦いが始まるわけですが、

 

そんな中で孟達の部下であった李輔や孟達の甥である鄧賢が孟達を見限り、

司馬懿と通じて城門を開けた為に、あっさりと孟達は討ち取られてしまったのでした。

 

 

劉璋を裏切り、劉備を裏切り、曹叡を裏切った孟達でしたが、

三国志演義では同時期に病死していた徐晃を矢で討ち取るという手柄を添えられてますね。

 

実際は徐晃は孟達と関係ない所で既に病死していますから、

あくまで三国志演義の話を面白くするために付け加えられたお話に過ぎません。

諸葛亮にとって使い捨てに過ぎなかった孟達

孟達の反乱は半月ほどであっさりと鎮圧されてしまいますが、

 

諸葛亮としては孟達の反乱こそ失敗したものの、

陽動という意味では十分な役割を果たしてくれたわけですから、

 

孟達の反乱は十分な役割を果たしたと思ったのではないでしょうかね。

 

 

まぁ失敗すると分かってて、わざわざ申儀の耳に入れたのでしょうから、

ある意味諸葛亮の計算通りだったと思います。

 

諸葛亮は孟達を使い捨てみたいな感じで、

「成功すれば尚よし、失敗してもまぁよし」とこんなところだったでしょう。

 

 

実際新城は蜀と領地は続いていたので、

諸葛亮が本当に孟達を支援する気があったのなら、援軍を送っているはずですからね・・・

 

まぁ申儀が蜀との交通路を完全に封じていたために、

蜀は援軍を孟達の元へと送れなかったといったような記載も見られたりしますが、

 

諸葛亮が孟達を援護する為に援軍を送ったなんて記載はそもそも見られません。

むしろ「諸葛亮は孟達に援軍を送らなかった」と記載が残っています。

 

まぁ魏の立場としては援軍が来ては都合が悪いので、

その対策をしたといった意味で魏側に記載が残っているだけだと思います。

 

 

 

ちなみにですが、孟達が反乱を起こしたのが12月であり、

 

それから約2か月後に諸葛亮はやっと北伐を開始したという事を考えても、

やはり孟達に反乱を起こさせることだけが目的だったのでしょう。

 

正月到来を待ってるだけで全く救う気がないのですから・・・

 

 

そして孟達の死から少しして、諸葛亮は魏へと侵攻を開始したのですが、

 

街亭の戦いで敗れるまで、

諸葛亮の思惑通り順調に第一次北伐は進んでいくこととなります。