三国志で関羽を思い浮かべた際に、

周倉という人物を同時に思い浮かべる人も多いのではないでしょうか?

 

そんな周倉について、ここでは見ていきたいと思います。

周倉(しゅうそう)と関羽の出会い

横山光輝三国志(18巻173P)より画像引用

 

周倉と言えば、関羽を慕って付き従い続けた武人ですが、

まず結論から言いますと、周倉という人物は実在していません。

 

周倉が登場するのは三国志演義の中の話で、

関羽に出会う前の周倉は、張角が起こした黄巾の乱の賊の一人として登場しています。

 

 

黄巾の乱が沈静化していくと、

 

周倉は裴元紹はいげんしょうと共に臥牛山で山賊生活を送っていたのですが、

この時に周倉と関羽は出会っています。

 

ちょうど関羽が劉備の元に帰るために曹操の関所を破って突破した時ですね。

 

ちなみになんですが、周倉と共に山賊生活を送っていた裴元紹という人物も、

三国志演義のみに登場する架空の人物になります。

関羽が千里行の末に、劉備の元に帰参した話って本当なの?

周倉の念願が叶う(関羽への仕官)

そもそも何がきっかけで、

劉備の元に向かっていた関羽と周倉が出会ったかというと、

 

関羽は曹操の5つの関所を突破しており、これまでの疲れを取って更なる長旅に備えるために、

郭常という人物の屋敷を借りる事になります。

 

しかしこの郭常の弟が山賊であった裴元紹の仲間だったこともあり、

関羽があまりにも立派な馬を持っていたので、二人はその馬を盗む計画をたてたのです。

 

 

そんなことを知る由もない関羽は、

宿泊後、劉備の元への歩みを開始するわけですが、

 

裴元紹や郭常の弟が待ち山中で待ち構えており、

馬を盗むために関羽らを襲うのですが、コテンパンに返り討ちにあってしまいます。

 

そして立派な馬に乗っていたのが関羽だと知ると、

裴元紹は周倉と共に関羽の仲間にいれてくれるように懇願。

 

 

関羽はこれから劉備を迎えに行くのに、

山賊全員を連れていく事は印象も悪いという事から仲間にすることはできないと拒否。

 

しかし、兼ねてより関羽を慕っていた周倉のみ付き従う事は認めています。

 

そして後日落ち着いてから裴元紹をはじめ部下を迎えると約束して

しばしの間、関羽・周倉と裴元紹らは別れる事になりました。

 

 

それ以後、周倉は関羽が死ぬまで付き従うのですが、

 

もう一方の裴元紹はというと・・・・

 

関羽からの使いが来るまで大人しく待っていたのですが、

今度は通りかかった趙雲の馬を盗もうとして返り討ちにあって殺されています。

関羽の腹心へ

劉備・張飛と合流した関羽・周倉らは、

その後は、荊州の劉表の元に身を寄せる事になります。

 

周倉の名が再び登場するのは、劉璋から益州を奪う為に侵攻を開始した時で、

関羽と共に荊州の守備を任される事になります。

 

 

劉備が214年に無事に劉璋を降して益州を手に入れると、

 

なかなか荊州を呉に返さない劉備に対して孫権の怒りが大きくなり、

荊州での劉備と孫権の対立が激しいものになっていきました。

 

 

周倉の話として有名なのは、単刀赴会たんとうふかいでしょうね。

 

荊州の今後について話し合う為に、

羽が周倉のみを連れて敵陣であった魯粛の元を訪れるわけですが、

 

魯粛は関羽との話し合いがうまくいかないだろうと思って、

事前に関羽を殺すために兵を隠していました。

 

魯粛の予想した通り、関羽と魯粛の話し合いはまとまりません。

 

 

そこで登場したのが周倉です。

 

周倉は「荊州は徳のあるものが治めるのが当たり前だ。

もともと孫権のものではない!」と横からしゃしゃり出てきます。

 

出しゃばってきた周倉に対して

関羽は「お前ごときの出る番ではない!!」と言って周倉をその場から追い出します。

 

 

しかしこの一連の流れは、関羽と周倉が事前に打ち合わせていた事であり、

魯粛がよからぬことを考えていた際の二人だけの阿吽の呼吸での作戦でした。

 

退出させられた周倉は、隠しておいた水軍を呼び寄せ、

一人残った関羽も魯粛を人質にする形で船まで連行させます。

 

そして船で待つ周倉と合流すると、

何もなかったかのように荊州へ帰還していきました。

横山光輝三国志(36巻38P・39P)より画像引用

 

三国志演義と正史から見る「単刀赴会」での関羽と魯粛

 

関羽にとって命を懸かったこの作戦を周倉に頼んだのは、

周倉が関羽にとって信用できる人物だったからというのは言うまでもありません。

 

それだけ関羽の中で周倉の存在が大きなものになっていたのです。

荊州攻防戦

 

単刀赴会を経て、荊州に戻った関羽でしたが、

劉備が漢中を制圧すると、関羽は荊州から北上して曹操領の樊城の攻撃を開始。

 

曹仁が守る樊城を水攻めにし、完全に包囲。

そして援軍として駆け付けていた于禁は水攻めによって壊滅しており、速攻降伏する始末。

 

 

また于禁の副将として参加していた龐徳は、

この戦いで捕らえられて処刑されているのですが、龐徳を捕らえたのが周倉でした。

 

龐徳と言えば元馬超軍の猛将として登場した人物ですが、

そんな龐徳の載っていた小船に自分の子船をぶつけて、龐徳を落水させます。

 

周倉は泳ぎの達人であったので、

その特技を活かして水の中の戦いに持ち込んだわけですね。

横山光輝三国志(41巻39P)より画像引用

 

この時の関羽の勢いはすさまじく、

曹操自身も許都からの遷都を考えたほどだったといいます。

関羽の死

そんな折りに利害が一致していた曹操と孫権は密かに手を結び、

孫権は関羽の背後となる荊州へ襲い掛かります。

 

これにより、荊州の守備を任されていた糜芳・傅士仁らが降伏。

 

 

これにより関羽はこれ以上曹仁らの相手をすることができなくなり、

 

孫権と曹操に挟み撃ちに合う形になってしまい、

昔使われていた古城であった麦城へ追い詰められます。

 

関羽はこれ以上自分達だけで戦い抜くことは不可能だと察し、

上庸にいた劉封・孟達へ援軍要請を出しますが、孟達の反対にあって援軍はまさかの拒否・・・

 

 

この時に関羽の使者として訪れたのは廖化でしたが、

関羽はいつまでも廖化が帰ってこないので、廖化が討死してしまったと考え、

 

自ら赤兎馬にまたがり、息子の関平を従えて援軍要請へ向かいます。

そして麦城には周倉・王甫らに任した形での出陣でした。

 

しかし関羽が出てくるのを待ち構えていた孫権らは、

見事に関羽を捕らえて処刑されてしまいます。

関羽の死を知った周倉のその後・・・

関羽が援軍を引き連れて戻ってきてくれることを信じて、

麦城で少数の兵で頑なに抵抗していた周倉でしたが、

 

そんな折りに、「関羽はもう死んだぞ!

いつまで経っても援軍が来ることはないから潔く降伏してはどうか!!」

 

という情報が孫権からもたらされます。

横山光輝三国志(42巻67P)より画像引用

 

 

周倉らは「これは孫権の計略だ! 関羽様が死ぬわけがない!!」

と信じずにいましたが、

 

関羽の首を見せられると、涙を流しながら、

「私の命運も尽きた。関羽様の元に今すぐに・・・」と言い放つと、城壁より飛び降りで自殺。

横山光輝三国志(42巻68P〜70P)より画像引用

 

横山光輝三国志で上のように王甫が城壁から飛び降り、

周倉が自害したような描写になっていますが、

 

三国志演義では周倉・王甫は共に城壁から飛び降りたとするものや、

共に自害して果てたような書かれ方をしているものがあり、

 

横山光輝三国志では、それらを半分ずつを採用し、

 

王甫に城壁から飛び降りさせ、

周倉には自らの剣で自害させるといった描写にしたのかなと思っています。

 

 

関羽を追ってあの世までお供した周倉は、

 

架空の人物でありながら実際に実在した人物かのように、

関羽を祀る関帝廟の傍らに息子の関平と共に祀られています。

「関羽の死」に関わった者達の三国志演義での末路