関羽の死因の一つとしてまとわりつく人物に、

必ずといっていいほど糜芳が取り上げられることが多いですが、

 

糜芳が世間一般で言われるように、救いようのないないほどの人物なのか、

ここではそんな糜芳の生涯を見ていこうと思います。

麋竺(びじく)&糜芳(びほう)兄弟

糜芳は劉備が陶謙の跡を継いだ時から、

兄であった麋竺とともに劉備に仕えだした人物です。

 

麋竺・糜芳は先祖代々非常に裕福な家系であり、

下僕一万人以上を抱え、巨億の資産を有していたといわれています。

 

そんな裕福な家に生まれた麋竺・糜芳ですが、

陶謙死後は劉備の魅力に惹かれ、劉備を資金面で全力で支援します。

 

これによって、いかばかり劉備は救われたか分かりません。

 

 

特に呂布の裏切りにあって、下邳の城が奪われた時は、

劉備の妻子もつかまってしまいます。

 

この時は、これまで以上に多額の援助を行っただけでなく、

麋竺・糜芳の妹にあたる麋夫人を嫁がせています。

 

この二人の援助のお陰で、劉備は大分持ち直すことができたと言われています。

 

 

劉備には、甘夫人という麋夫人以前に結婚した妻がいましたが、

麋夫人を正室として迎えています。

 

甘夫人は劉禅の妻でもありますが、正室ではありませんでした。

 

 

この時代には家柄が立派な所から娶った妻を、正室としておくことがよくあり、

多額の援助を行ってくれた麋竺・糜芳の妹が、正室として迎えられたのは当然な話でもあります。

 

このような点を考慮しても、麋竺・糜芳は、劉備に対して金銭的な面だけでなく、

精神的な面でも援助していたことが伺えますね。

劉備の最初の正室である糜夫人&劉備に一番長く付き従った劉禅の母、甘夫人

曹操から高い評価を受けた糜芳

呂布に追われ、曹操に世話になることになった劉備ですが、

劉備に付き従う形で麋竺・糜芳も曹操の元を訪れます。

 

曹操が劉備に対して「英雄は君と私だけだ!」と言った話は有名ですが、

麋竺・糜芳兄弟も高い評価を受けます。

 

そして麋竺は嬴郡太守の地位を与えられ、

一方の糜芳にも彭城の相の地位が与えられています。

 

 

しかしその後劉備が董承による曹操討伐計画に参加して曹操に背くと、

麋竺・糜芳は曹操から頂いた位を捨てて、劉備に付き従う事になります。

 

麋竺・糜芳にとって、

それだけ劉備に対する大きな魅力があったのでしょうね。

劉備の信用を得て、南郡太守に任じられる

曹操にも高い評価を受けた糜芳でしたが、

劉備は自らが苦しんでいる時に金銭面的にも助けてくれた、

 

そして苦楽を共にしていた糜芳に感謝しており、大変な信頼を置いていました。

 

 

その為に劉備が益州攻略の為に出陣した際は、

荊州全体を任せ、対呉の最前線であった南郡の太守として糜芳が任じられています。

 

関羽が樊城へ攻め込んだ際は、

また公安を守る傅士仁と共に後援部隊として食糧や武器の輸送などを担当したようです。

歯車が狂い出す

関羽が樊城攻略を優位に進めていた際に、

 

関羽への食糧や武器輸送などを担当していたのが糜芳・傅士仁らですが、

ここで糜芳はちょっとやらかします。

 

 

大事な食糧等を失火で失うという失態を犯し、

 

「後でお前ら覚えとけよ! この失態を劉備様に報告して罰してやるからな!!」

といったように関羽から激怒され脅されてしまいます。

 

 

仮にも糜夫人(この時には既に死んでいる)の兄にあたる糜芳に対して、

 

これだけの事をいう関羽は、

正史に記載が残るように傲慢な性格だったことが分かりますね。

 

その後、劉備と孫権は長らく同盟関係にはありましたが、

利害が一致したことで孫権と曹操が手を結んで、呉は関羽の背後を襲います。

 

 

糜芳と同じように関羽に脅されていた傅士仁ですが、

旧知の仲であった呉の虞翻ぐほんに説得される形で降伏。

 

戦っても関羽から後で罰せらるし・・・、負けたら更にやばいだろうし・・・

とかなりの板挟み状態にあったのでしょう。

 

これにより糜芳の運命が狂い出すことになります。

 

 

ちなみにこの傅士仁という人物は、傅士仁説と士仁説がありますが、

関羽伝のみに出てくる傅士仁は誤記だとも言われています。

 

ただ個人的には三国志演義での影響もあり、

傅士仁の方がしっくりくるために傅士仁として基本的には記載しています。

傅士仁 -関羽を裏切った事で歴史に名を残した人物-

糜芳の裏切り

呉が侵攻してきた際も、糜芳は戦う気まんまんだったのが実情です。

 

例え戦いの後に、食糧輸送の問題などで罰せられたとしても、

劉備の外戚としての立場、そして劉備に長らく付き従ってきた意地があったんでしょう。

 

 

しかしそんな中で傅士仁の裏切りが起こります。

 

傅士仁までが裏切った状態で、戦い抜くことは不可能だと判断した糜芳は、

完全に弱気になり、最終的に降伏するに至ります。

 

それだけ傅士仁の降伏が、

糜芳にとって精神的に追い詰められてしまったのでしょう。

 

 

後方からの支援が届かないだけでなく、

傅士仁・糜芳が呉に寝返った事で樊城を攻めていた関羽の状況は一変してしまいます。

 

その結果関羽は呉に捕らえられ、処刑される憂き目に・・・。

「関羽の死」に関わった者達の三国志演義での末路

余談

この時、糜芳と同様に長らく劉備を支えてきた麋竺は、

糜芳の裏切りを聞いて失望と共に激怒したと伝えられています。

 

そして自らを縄で縛って劉備へ謝罪しにいった麋竺に対し、

 

「気にするな! 糜芳に罪があったとしても麋竺には罪はない!!」

と劉備は優しく声を掛けたといいます。

 

 

しかし麋竺の気持ちが和らぐことはなく、

気にするがあまりに翌年失意の中で憤死してしまうのです。

 

劉備にとって麋竺・糜芳は大恩ある兄弟であったこともあり、

糜芳が裏切ったにしろ、麋竺に対する評価は変わらなかったのでしょうね。

劉備に忠義を貫き通した麋竺

その後の糜芳

孫権に降伏してからの糜芳は、それなりに大事に扱われていたようです。

 

それなりと書いたのは、

その後の糜芳についての記録が少ないからですね。

 

呉の晋宗しんそうが魏に寝返り、

国境であった安楽県を襲撃するなど国境を脅かしていた時には、

 

賀斉がさい鮮于丹せんうたんと共に、糜芳が将軍として任じられて、

討伐に乗り出して無事に晋宗を捕らえて手柄を立てたそうです。

糜芳と虞翻の逸話

呉には虞翻ぐほんというKY(空気読めない)野郎がいました。

 

何かあるたびに皮肉たっぷりに非難していた為、

孫権からも煙たがれていた人物でもあります。

 

最終的に孫権も我慢の限界に達し、左遷されらた人物でもあります。

 

 

代表的なのに于禁に対する罵声などがありますが、

それは降伏者であった糜芳も例外ではありませんでした。

逸話①

これは糜芳が川を船で渡っていた時、

糜芳の乗った船と虞翻の乗った船がすれ違った時の話になります。

 

わざわざ虞翻は糜芳の船に向かって、

「劉備を裏切ってきたのに、どんな気持ちで孫権様に仕えるのだ!

お前のせいで南郡・公安が落ちているのに、将軍を名乗るなど甚だしい!!」と罵声を浴びせた事があったそうです。

 

 

糜芳側は、降伏してきた者であったこともあり、

糜芳を馬鹿にしたような口調でしたが、

 

真実でもあったために糜芳は言い返すこともなく、

控えめに虞翻の船を避けて通るように指示を出したそうです。

逸話②

虞翻が馬車にて出かけていた時に、

たまたま麋芳の営舎を通り抜けようとしたことがあったそうです。

 

しかし糜芳の営舎の門は閉ざされていた際にため、

「守るべき時に門の開けているのに、

逆に門を開けておくべき時に、お前は門を閉ざしている!

 

お前の頭は大丈夫か?」と虞翻らしい皮肉が飛び出したわけです。

 

 

さすがの糜芳も怒ってもよさそうな所を、

虞翻に逆らうことなく、虞翻の言葉に従って門を開けてあげたそうです。

 

おそらく何を言われても静かに甘んじていたのには、

 

蜀に戻りたくても戻れない立場であり、

おそらく死ぬまでこのことを胸に恥じながら生きたからかもしれませんね。

糜芳についての見解

劉備が苦労していた時から麋竺と共に劉備を支えてきた糜芳。

 

曹操から高く評価されながらも、

劉備の為に苦楽を共にしたことは忠臣と言えると思います。

 

呉が侵攻してきた際には、

死ぬ覚悟で呉との勝負に挑んだのも本当でしょう。

 

 

ただ糜芳も一人の人間です。

 

劉備と旗揚げ時から付き従っていた関羽から脅しをかけられ、

傅士仁は呉に投降してしまうのですから、

 

糜芳の中での何かが壊れたのかもしれませんね。

 

兄である麋竺の顔や劉備の顔が頭に思い浮かんだのと同時に、

「あぁ、もういいや・・・」的なものがあったんでしょう。

 

 

ただ糜芳に運がなかったのは、

糜芳が裏切ったことが延長戦上で関羽の死に繋がった事、

 

一言で言ってしまえばこれが糜芳の評価を大幅に下げたのだと思います。

 

なんせ三国志演義の劉備は主人公的立場ですし、

その劉備と義兄弟の中であった関羽・張飛もほぼ主人公的な立場の人物でしたから・・・

 

 

漢王朝の復興を掲げる劉備は、正義の人として描かれていますし、

 

その劉備を裏切って、結果的に関羽の死に繋がった糜芳は、

悪役以外の何者でもありませんからね。

 

 

この件があってからというもの、

糜芳は「裏切り者」の代名詞のようなイメージが強く残ってしまいますが、

 

曹操・劉備・孫権それぞれから一定の評価を得ていた糜芳は、

一角の能力を持った人物だったと、私は少なくともそう思いますね。

 

また長らく劉備に仕えた糜芳は、忠義の士だったと言っていいでしょう。

ただそのタイミングが悪すぎたとしか言えません。