益州(地方)で独立国の夢を描いた劉焉の跡を継いだのが劉璋ですが、

二代目劉璋がどんな生涯を送ったのかをここでは見ていきます。

 

世間一般に「暗愚」「無能」と言われることが多い劉璋ですが、

そうとは一概に言えない面も持ち合わせた人物だったと私は思いますね。

予想されてなかったであろう跡継ぎ、劉璋(りゅうしょう)

劉璋は劉焉の第四子(末子)にあたり、

本来劉焉の跡継ぎになる可能性が極めて低かったと思われます。

 

 

ちなみに劉焉は漢王朝の劉家の一族であり、

素性がどことなくあやふやな劉備とは全く違います。

 

そんな劉焉ですが、後漢王朝に仕えながらも、

地方での独立勢力を夢見て益州に出向き、

 

その後は後漢王朝に反抗的な態度を取り続けた人物でもあります。

益州で独立国を夢見た劉焉

 

 

劉焉には、劉範・劉誕・劉瑁・劉璋と4人の跡継ぎ候補がいました。

 

ただ董卓亡き後の李傕・郭汜が治める長安を、

馬騰と手を組んで奪取する計画を練るも見事に失敗して、劉範・劉誕は死亡。

 

 

そして三男であった劉瑁と末子である劉璋が残るわけですが、

 

劉瑁が病気がちであったことと、

趙韙という人物が劉璋を跡継ぎに推したことから、

 

兄である劉瑁を差し置いて、末子の劉焉の跡を継いだ形です。

 

ちなみにですが、この劉瑁の妻は呉氏という女性であり、

呉懿(呉壱)の妹にあたり、後に劉備最後の妻になる呉氏(穆皇后)にあたります。

劉焉・劉璋の親戚であり、劉備の親戚でもあり、優秀だったのに個人伝が残されなかった呉懿(ごい/呉壱)

劉備の元に嫁いだ未亡人、呉氏(穆皇后/ぼくこうごう)〜劉備最後の妻〜

 

 

おそらく劉焉としても劉璋を跡継ぎにする予定はなかったでしょう。

 

しかし長男・次男が亡くなった事がきっかけで、

跡継ぎの座が回ってきただけだけとみるべきだと思います。

 

だからこそ劉焉は可愛がりはしたものの、

劉璋を養育することにあまり力を入れていなかったんじゃないかなと・・・

 

普通に考えて後を継ぐのは、劉璋より年上の三人だったでしょうからね。

張魯の独立

劉焉の死後、劉璋が跡を継ぐことになるのですが、

劉焉の命によって漢中へ侵攻していた張魯が完全に劉璋から独立

 

実際は劉焉の時から独立気味ではありましたが、

完全に独立していたわけでなく、少なからずの交わりは続いていました。

 

それが劉焉が死んだことで、張魯の足枷が完全に外れたのでしょうね。

 

これに対して劉璋は怒りを露わにし、

張魯の母であった盧氏と張魯の弟であった張徴ちょうちょうを処刑してしまいます。

 

 

ちなみに劉璋が二人を処刑できたのは単純で、

張魯は漢中にいたものの、

 

盧氏&張徴は、そのまま劉焉・劉璋の元に留まっていたからというそれだけです。

五斗米道は張魯が張脩から奪った教団名である

趙韙(ちょうい)の反乱

趙韙は劉焉の時代より仕えていた人物で、

劉璋が劉焉の跡継ぎになる際に貢献した人物でもあります。

 

おそらく力を入れて養育されていなかった劉璋が跡を継いだ方が、

趙韙的にはやりやすいと思ったのかもしれませんね。

 

そんな経緯で劉璋が正式に劉焉の跡を継いで、朝廷より正式に益州刺史に任じらました。

 

 

劉璋の元には、劉焉が地方より流れてきた民衆らの中から、

選りすぐった兵士を集めて「東州兵」という精鋭部隊がいましたが、

 

この東州兵が劉璋政権下で、民衆に対して好き放題にやらかします。

 

 

この事態を収拾するように趙韙に命令を下しますが、

逆に趙韙は東州兵を逆に味方につけて反乱を起こしたわけです。

 

またそれだけではなく、東州兵の行いなども含めて、

普段から劉璋政権に対して不満を持っていた地方豪族も次々と味方に引き入れました。

 

 

これに対して劉璋は追い詰められはしたものの、粘り強く成都に篭城して守り続けます。

 

成都を必死に守る劉璋に対して、流れが少しずつ変わっていき、

もともと劉焉・劉璋に仕えていた東州兵が、趙韙を裏切って劉璋側についたわけです。

 

これにより形勢は一気に逆転し、劉璋が勝利して幕を下ろします。

 

 

一方の敗れた趙韙はというと、

なんとか逃亡を試みようとしましたが、最終的に討ち取られています。

張松・法正・孟達の裏切り

曹操が荊州に侵攻を開始すると、

劉璋は危機を覚えたか三度にわたって曹操への親善の使者を派遣してます。

 

一度目・二度目の使者に対しては、曹操も素直に喜んだようですが、

三度目ともなると「もう親善の使者なんて何度も送らなくていいよ」と言わんばかりに突き放します。

 

この三度目の使者として曹操の元を訪れたのが張松という人物でした。

 

 

曹操の態度に怒りを露わにした張松は、

「曹操と関係を結ぶよりも劉備と結んだ方が良い」と進言。

 

この頃、曹操が孫権・劉備連合軍によって赤壁で敗れた後ということもあり、

 

劉璋は今後の曹操や張魯といった外的要因から益州を守る意味でも、

張松の言葉に従う事が良いと判断したわけです。

 

 

ただ張松が劉備を益州へ呼び寄せようと考えた裏には、

劉備に劉璋から益州を奪ってほしいという思惑があったんですが、

 

この張松の考えに、張松の知人でもあった法正・孟達も賛同していました。

 

 

劉備が劉璋に代わってくれれば、

自分達も出世できるという思惑も確実にあったでしょう。

 

実際、張松は兄の張粛に密告されて処刑されてしまいますが、

残った法正・孟達は劉備政権下の元で大きく出世していますからね。

 

劉備にとっては益州を奪うきっかけを与えてくれた恩人という立ち位置にもなるのだから、

当然と言えば当然なんですけども・・・

北伐を成功に導けたかもしれない天才戦略家、法正(ほうせい) 〜もう少しだけ長生きしてくれればと思わずにはいられない人物〜

劉備を招き入れる事に大反対した王累・黄権・劉巴

 

張松・法正・孟達らが劉備を益州に招く事を進める中で、

それに大反対をした王累・黄権・劉巴という者達がいました。

 

王累は、劉璋が劉備を迎えに行く際には、

城門で逆さづりした状態で命をかけて反対し、縄をきって絶命しています。

 

また黄権も劉備を招くことが国を奪われる原因になると大反対し、

劉巴もまた王累・黄権同様に劉備を招く事に反対しました。

 

 

劉巴は劉備が荊州にいた際から、

劉備を避けて避けて最終的に益州に辿り着いている点からも、

 

そもそも劉備の任侠的な所が好きでなかったんだと思うので、

少し理由は違うような気がしないでもないですが・・・

 

 

ここで反対した黄権は、

劉備が益州を手に入れてからは劉備の為に懸命に仕えていますし、

 

劉巴も仕方なしという感じで劉備に仕えましたが、

劉備の入蜀後おn経済を立て直すために貨幣発行をするなどの大貢献をしています。

 

 

劉備を招くことに反対した者達は、

将来を見通す能力に長けていた者達であったことも確かで、

 

もし王累が縄を切って死んでいなければ、

劉備の元で活躍した人材の一人になっていたでしょう。

 

その最たる例が王累同様に反対した黄権・劉巴といえると思います。

劉備の入蜀に賛成したor反対した劉璋臣下

劉備との敵対&降伏

張松が劉備と裏で繋がっており、

劉備に益州攻略をさせようとしていることが発覚してしまいます。

 

発覚の原因になったのは、張松の兄である張粛の密告でした。

弟よりも劉璋への忠臣を貫いたわけです。

 

これにより張松は処刑され、はっきりと劉備の野心が分かったことで、

劉璋は劉備討伐へ乗り出します。

 

劉備軍と一進一退の攻防を繰り返していた劉璋ですが、

最終的に成都を包囲されてしまいます。

 

 

それでも数十日と劉備の猛攻を防ぎ、

かつ成都の士気は更に高まっており、十分な食料も確保されていました。

 

しかしこれ以上戦いが長引くことで、

領民を更に苦しめると考えた劉璋は、降伏を決意。

 

これにより劉璋をはじめ、劉璋の臣下一同は劉備に仕える事となります。

いぶし銀、簡雍(かんよう)/劉璋を降伏させた男

民衆を大事にした劉璋の裏話

劉備が益州攻略の野心を出した頃、

鄭度ていどという人物が「焦土作戦」なるものを提案したことがありました。

 

 

これは、巴西郡・梓潼郡の領民を西に移し、

 

そこの穀物を焼き払って、

劉備軍が食糧を益州で手に入れられないようにするというものでした。

 

 

この作戦が実際に実行されていれば、

劉備が益州を手に入れる事が出来なかった可能性もかなり高いです。

 

実際に劉備は数年かけて益州を攻略していますが、

劉備は龐統を失うなど結構な苦戦を強いられていたのが現状でした。

 

 

その上、食糧が現地から全く手に入らないとなっていたら、

戦いは更なる苦戦を強いられていたでしょうし、

 

なによりその間に北の曹操、西の孫権が荊州へ侵攻してきていれば、

そのまま滅亡していた可能性すらあったと思うんです。

 

 

しかし劉璋は、この鄭度の焦土作戦を断固拒否。

 

「民衆を守る為に敵の攻撃を防ぐというのは聞いた事がある。

けれども民衆を移動させて敵を防ぐというのは一度も聞いた事はない!」

 

とかっこいい台詞を言ったわけですね。

 

 

この焦土作戦の話が議論されていると、

劉備の元に情報が伝わった際はさすが劉備も「やばすぎる!」と思ったそうです。

 

しかし劉璋から劉備に轡替くつわがえを行った法正は、

「劉璋には焦土作戦を実行する器量はないから安心していいですよ」と言った話も残っています。

 

実際法正の読み通り、焦土作戦が実行される事はありませんでした。

鄭度(ていど) -幻となった「焦土作戦」の発案者-

「焦土作戦」が実行されなかったことに対しての賛否

劉璋が焦土作戦を行わなかった点に関して、

劉璋が暗愚であったという評価も数多くありますが、

 

劉璋が一人の君主として、人民のことを大事にしていた証拠だともいえると思います。

 

 

実際、劉璋が民衆を苦しめる政治を行っていたなども言われたりしますが、

この点だけを考えても、そうじゃなかったとしか思えません。

 

もし民衆を労わる心がなかったならば、

劉備を撃退する為に、なんの躊躇もなく焦土作戦を実行していたでしょうしね。

 

 

また劉備が成都を包囲して後も数十日耐えており、

更に成都内の兵士の士気も高く、篭城する際の食糧も十分に残されていた状態で、

 

戦いが長引くことで、民衆の生活が厳しくなっていく事に心を痛め、

最終的に劉璋は降伏を決意した点を考えても、

 

劉璋という人物は、無能で暗愚な君主だったのではなく、

民衆を第一に考えられる君主の器の持ち主だったと、少なくとも私は思いますね。

 

ただそれが乱世の時代に合わなかったというだけかと・・・

その後の劉璋

 

降伏してからの劉璋は、

益州に劉備と劉璋の二君がいることはよいことではないとの判断から

 

荊州の公安へと移される事になります。

 

 

関羽が呂蒙・陸遜らによって敗れて処刑された後は、

劉璋は孫権に仕える事となりました。

 

ただ劉璋が送られた公安は、傅士仁が任されていた地であり、

おそらく傅士仁が孫権に降伏した時から呉に降った形だと思います。

 

 

なので関羽が処刑されて荊州が完全に呉に落ちてからという感じではなく、

傅士仁が降ったタイミングで、劉璋も自然的な流れで孫権に仕える事となったのでしょう。

 

孫権に降った劉璋でしたが、その後間もなくして病死しています。

「関羽の死」に関わった者達の三国志演義での末路

傅士仁 -関羽を裏切った事で歴史に名を残した人物-

 

ちなみにですが、劉璋の子である劉循りゅうじゅんは、

劉璋が公安に送られて後も成都に留まっていたこともあり、

 

荊州陥落によって劉璋が孫権に降ってからも、最後まで劉備に仕えています。

 

 

「三国志」を著した陳寿は、劉璋の事を次のようにまとめています。

 

「劉璋は英雄になれる才はなく、

劉備によって益州を奪われたのは当たり前のことで、それを不幸とは言わない」と・・・。