董卓の腹心と言えば、
間違いなく名前があがる人物の筆頭に李儒がいると思います。
まず初めに言っておくと、李儒は陳寿「三国志(正史)」には登場しません。
そしてそれをいい事にかは分かりませんが、
三国志演義では、董卓の暴政のほとんどに李儒が一役買っていたりします。
では李儒の記載が全く残っていないかというとそうではありません。
李儒の名は、「後漢紀」「後漢書」にその名が少しですが残されています。
またそれだけでなく李儒の名は、
「漢郃陽令曹全紀功碑(曹全碑)」の中にも見られるため、
三国志正史に名前がないだけで実在した人物の一人であると言えますね。
李儒
李儒の字は「文優」と言われたりもしますが、正確には謎とされています。
また司隸馮翊郡郃陽県の出身であるとされていますが、
これらの情報は、「漢郃陽令曹全紀功碑(曹全碑)」から分かる李儒の情報になります。
ちなみに、「漢郃陽令曹全紀功碑」は、
馮翊郡郃陽県の県令であった曹全の善政を讃えて、185年に建てられたものになります。
そこに同県出身の博士として李儒の名前が刻まれています。
そして「後漢紀」にも李儒が博士であった記載が見られる事から同一人物とされています。
劉弁(少帝)・何皇后殺害
横山光輝三国志(4巻111P)より画像引用
李儒は董卓に仕えたとされている人物ですが、いつから董卓に仕えたのかは不明です。
おそらく董卓が洛陽に乗り込んだ辺りで仕える事になったと思われます。
「後漢書」には次のような内容が書かれてあります。
董卓の命令を受けた李儒は、
劉弁(少帝)と何皇后に毒薬を飲ませて殺害した人物である。 |
三国志演義ではこの逸話の流れの中で、
高塔から突き落とされて命を落としていますね。
この行動は普通に考えて「大罪人」とされる行いにあり、
そのあたりから「三国志演義」で登場した李儒は、董卓の腹心の立場とされたのでしょう。
董卓殺害後の李儒
王允と呂布が手を組み、董卓を殺害すると、
元董卓の臣下であった李傕・郭汜が長安へ攻め込みます。
そして王允は捕らえられて処刑され、呂布は長安から脱出して逃亡していったわけです。
董卓が殺害された際も、李儒は一緒に殺されたわけでなく、
その後もきちんと生存しており、李傕・郭汜が長安奪取に成功した後に、
李傕の推薦で「侍中」として取り立てられています。
献帝(劉協)は、
義理の兄であった劉弁が李儒によって殺害されていたことから、
李儒を処刑するように命じますが、この時懸命に李儒を庇ったのも李傕でした。
まぁ董卓に代わって、長安を奪取した李傕・郭汜の発言力が、
それほどまでにあったということでしょうね。
ちなみに李儒に関する記録は、ここで終わっており、
いつ死んだのか等は不明のままになっています。
李儒・郭汜の争いに巻き込まれて死んだのかもしれませんし、
静かに息を引き取って、歴史の舞台から降りたのかもしれません。
「三国志演義」の中での李儒
横山光輝三国志(5巻156P)より画像引用
李儒のイメージといえば間違いなく、
三国志演義の中での影響が非常に大きい人物です。
蔡和・蔡中のように三国志演義を面白くする為だけに登場した人物ですが、
三国志演義だけに登場する架空の人物というわけではないです。
きちんと「後漢紀」「後漢書」には記録として残っているからです。
ただ何故劉弁(少帝)殺害をした人物であるにも関わらず、
李儒の名が三国志正史に出てこないのかは結構謎が残りますけどね。
三国志演義では、董卓の娘婿として登場しており、
董卓の暴政を加速化させた参謀としての役割を担った人物でもあります。
※三国志正史で実際に娘婿なのは牛輔です。
ちなみに董卓が行った事のほとんどのことが、
李儒の献策というのは下を見れば一目瞭然ですね。
~李儒の献策~
- 劉弁(少帝)の廃立
- 劉弁(少帝)・何皇后の殺害
- 劉協(献帝)擁立
- 長安への遷都
- 追手の曹操を撃退させる為の策略
董卓を悪の大魔王に仕立て上げた人物として描かれているわけです。
また董卓が王允と貂蝉の「美女連環の計」にかかり、
董卓・呂布との関係に亀裂が入りだすと、これを諫めています。
しかし董卓は李儒の言葉に耳を貸すことはなかったようです。
その時に李儒は、次のように語っています。
「私たちは全員女の手にかかって死ぬことになるのか!」と・・・
最終的に董卓と呂布の関係が完全に断ち切れ、
王允・呂布の手にかかって董卓は殺害されてしまいます。
董卓が殺害された時の李儒は、「呂布、お前・・・」という言葉を残して、
董卓同様に呂布に斬り捨てられてしまいました。
横山光輝三国志(8巻53P)より画像引用
劉弁(少帝)殺害をした事実は、
「後漢紀」「後漢書」と三国志演義どちらでも同じように書かれています。
ですが三国志演義では、
「後漢紀」「後漢書」での記述にプラスされて、
董卓の暴政を一手に引き受けた参謀としての立ち位置に祭り上げられたわけです。
現在多くの人達が、李儒に抱くイメージが悪いのは、
三国志演義での描かれ方によるところが非常に大きいのだと思います。