暴虐政治によって民衆を恐怖に陥れた董卓でしたが、
そんな董卓が高く評価し、大きな信頼を寄せた人物がいました。
娘の蔡琰(蔡文姫)の方が有名だったりしますが、
ここでは彼女の父親でもある蔡邕についてのお話になります。
橋玄に高い評価を受けた蔡邕
蒼天航路(6巻168P)より画像引用
若かりし頃の蔡邕は、
橋玄から非常に高い評価を受けたことで知られています。
「橋玄って誰ですか?」って思う人もいるかもしれませんが、
司空→司徒→大尉として三公全てを歴任した人物であり、人物評としても有名な人物になります。
まぁ人物評の評価が高い事で、他の功績については薄れがちですが、
異民族との争いにもきちんと成果を出した人物でもあり、
辺境安定に力を尽くした人物でもあります。
橋玄がどんな評価をしていたのかということですが、
一番分かりやすい例としてあげるとすれば、曹操との逸話だと思います。
当時無名であった曹操に対して、最初に高い評価を与えたのがこの橋玄でした。
むしろ曹操の名声が高めるきっかけを与えた人物だといっていいでしょう。
橋玄は曹操を見て、次のように語った逸話が残されています。
「私はこれまで沢山の人物を見てきたが、
貴方のような人物に巡り合うことはこれまでなかった。
私はもうこのように老いてしまった。 できれば私の妻子を貴方に託したいものである。」 |
ちなみに曹操の評価として一番有名なのが、
許劭の「治世の能臣、乱世の奸雄」というものだと思いますが、
許劭への橋渡しをしたのも曹操に惚れ込んだ橋玄になります。
「六経」検定という大偉業
蔡邕は河平県長を経て中央に呼び戻され、郎中を任される事になります。
この時に「東観」で書物に接する機会があったようです。
そしてその後に議郎へと昇進しています。
蔡邕は東観の書物があまりに古い上に、誤字も多かったことに大変な懸念を示したそうです。
蔡邕はこれらの書物を新しく正しいものにきちんと訂正しないと、
謝った解釈が後の世に伝わる可能性があると考えます。
そして熹平四年(175年)に、六経の文字を校訂するよう霊帝に奏上して認められています。
この時に蔡邕と共に校定した人物として、次のような者達がいます。
- 堂谿典(五官中郎將)
- 楊賜(光祿大夫)
- 馬日磾(諫議大夫)
- 張馴(議郎)
- 韓説(議郎)
- 單颺(太史令)
蔡邕は誤字などを自ら訂正し、それを洛陽城南太学の門外に石碑として残したといいます。
またこの碑文を一目見ようと毎日長蛇の列ができたと言われています。
ちなみにこれは「熹平石経」として今に伝わっていますね。
約12年間の放浪生活
漢王朝の中にあって頭角を現した蔡邕でしたが、
劉郃(司徒)・程曠・陽球に疎まれてしまい、嘘の証言によって処刑されそうになります。
ただ蔡邕の無実を訴え出す者のお陰で、
頭髪を剃って首枷をはめる罰を言いわたされ、并州朔方郡への流刑で済まされています。
この時に蔡邕を擁護した人物は、呂強という中常侍でしたが、
呂強はこの時代には珍しいほど後漢王朝を憂いていた宦官の一人だったのです。
ちなみに後日談になりますが、
呂強が気に入らない他の中常侍(趙忠・夏惲)に嵌められる形で自殺して果てています。
ただ蔡邕の流刑に納得がいかなかった陽球は、
現地へと赴く最中に刺客を数人送ったり、刺史や太守に賄賂を送って殺害を試みました。
しかし誰もが蔡邕が清廉さに溢れた人物であった為に、
誰も蔡邕を殺害せず、逆に蔡邕に注意するように促したといいます。
彼らの言葉を聞き入れた蔡邕は、
難を逃れる意味でも朔方郡へは行かず、隣の五原郡安陽県に移り住みます。
それから九カ月ほどして、
大赦のお陰によって蔡邕の罪は許される事になります。
この時に五原太守の王智が蔡邕の送別会を催してくれたわけですが、
自分と共に舞を踊るように催促するも、蔡邕がその言葉に耳を傾ける事はありませんでした。
この態度が気に食わなかった王智は、
「蔡邕は流刑にされた事を深く恨んでおりました。」
と洛陽へ密かに報告をいれたのでした。
その事を知った蔡邕は、またしても難を逃れる意味でも、
家族を連れて長江を渡り、揚州の呉郡でや会稽郡へと逃れています。
そして蔡邕が定着した揚州呉郡での生活は、
董卓に呼び出される189年までの約10年にわたって続いたと言われています。
霊帝の死と宮中の混乱
189年に霊帝が崩御すると、
外戚の何進と宦官が後継者争いで激突し、
結果は何進は宦官によって殺害され、
一方の宦官も、何進の部下であった袁紹らに誅殺されてしまいます。
そしてその混乱に乗じたのが董卓でした。
董卓は洛陽への入城を果たし、独裁政治を強いていくのですが、
かねてより蔡邕という人物に興味を持っていた董卓は洛陽へ呼び寄せる為に人を送ります。
しかし中央政権に嫌気がさしていた蔡邕は病を理由に、董卓からの誘いを断りました。
これに対して董卓は大変に怒り、蔡邕に対して脅しをかけるわけですが、
これによって蔡邕は洛陽へと上洛し、董卓に仕えることになります。
董卓はこれを大変に喜ぶと共に、
三日間で尚書・御史・謁者と次々に出世するほどの待遇でした。
その後に巴郡太守(益州)に任じられたものの、
そのまま中央に留まったことで、蔡邕は侍中に任じられています。
董卓の鎮静剤
蒼天航路(6巻173P)より画像引用
董卓の勢いは天を衝くほどで、
劉弁(少帝)から劉協(献帝)に皇帝を変更したり、
反董卓連合の誕生によったりで、長安へと遷都を決定しています。
そして蔡邕ですが、董卓に従って長安へ随行しています。
献帝を擁立する際には、盧植が大反対をしたのに対し、
董卓は盧植を処刑しようとしますが、
盧植を擁護したのが旧知の中であった蔡邕、そして彭伯の擁護のお陰で、
盧植が処刑されることはありませんでした。
また朝廷から出される草稿のすべてが、
蔡邕によって書かせたものだと言われているほどだったといいます。
それほどまでに董卓は蔡邕を大変信頼していたのでした。
ただ蔡邕の言葉に耳を傾ける事もあった董卓ですが、
傾けない事も多々あったこともあり、蔡邕は董卓の元を去る事を考えたようですが、
従弟である蔡谷の意見を聞いて、これを取りやめたといいます。
董卓の死&蔡邕の死
蒼天航路(7巻74P)り画像引用
王允が董卓の部下である呂布を裏切らせたことで、董卓殺害に成功します。
この時に董卓の一族はことごとく処刑されることになります。
「魏志」董卓伝の裴松之注(英雄記)には、
卓の一族である董旻・董璜も殺害され、
九十歳を超えていた董卓の母が助命しても許されることなく、その場で首を刎ねられたといいます。
ちなみに「董卓のへそに火を灯すと、数日間燃え続けた」という逸話も、
「英雄記」の中の逸話であったりします。
ただ王允のやり方は徹底的に排除するというもので、
李傕・郭汜らが王允に降ろうとするのも許さない程に徹底的なものでした。
それが後に裏目になり、
賈詡の助言を聞き入れた李傕・郭汜によって長安を落とされてしまうわけですが・・・
そんな中で王允の前で話題にし、溜息をついた蔡邕を不快に思った王允は、
蔡邕を捕らえ、きつい取り調べを行ったのでした。
私が思うに蔡邕は、董卓が死んだことに対しての溜息ではなく、
最後まで董卓の暴政を抑える事ができなかった自分自身の不甲斐なさに対して、
心の声が漏れて溜息をしてしまったのではないかと思います。
その後に蔡邕は王允に深く謝罪をし、
罪深き罪人に処される黥刑(額に入れ墨)・足の切断刑になってもよいので、
「漢王朝の歴史を編纂させて頂きたい」と願い出ただけでなく、
多くの者達が蔡邕の助命嘆願を願い出るも、蔡邕は最期まで許される事はありませんでした。
ただ蔡邕を死なせてしまった事と、王允の旧董卓勢力に対する対応の悪さから、
上でも少し触れましたが、李傕・郭汜によって長安は攻め落とされます。
呂布は逃亡し、王允が処刑された事で、
董卓殺害に伴う混乱は一段落つくこととなったのでした。
蔡邕に認められた阮瑀・王粲
蔡邕が世に残した功績は大きく、
建安七子で知られる阮瑀(白眼視で知られる阮籍の父)や王粲の師でもありました。
後の建安七子と呼ばれる七人のうちの二人を見出したのですから、
蔡邕が大変に優れていたかの一つの証明にもなると思います。
そして阮瑀は曹丕によって次のようにも評価された事でも知られています。
「陳琳殿と阮瑀殿が表現するに勝る人物はいないであろう。」
軽く補足しておきますが、陳琳も阮瑀・王粲同様に建安七子の一人になります。
また一方の王粲に関しては、
「王粲はまだ若い人物だが、非常に卓越した才能を持ち合わせており、
私の才能をもってしても敵わない程の人物である。
もし必要があるならば、
私の家にある書物は好き勝手に持ち帰って頂きたい。」
と蔡邕が王粲をべた褒めした逸話も残されています。