曹操がまだ無名であった頃、
曹操の名声を大きく上昇させた二人の人物がいました。
まず一人目は橋玄、
そして二人目は許劭(許子将)という人物になります。
ここでは誰よりも早く曹操を高く評価した人物であり、
許劭と曹操を引き合わせるきっかけを与えた橋玄という人物を見ていきたいと思います。
目次
人物批評・占いなどの大きな役割
この時代、どういう形にしろ自らの名を広める事は非常に大事な事であり、
天下に名を響かせることができ、飛躍できる機会が多くなったからに他なりません。
だからこそこの時代、多くの人物批評家がいたわけです。
これら評価する側の人物も人を評価する事で、
自らの名声を上げる働きもあった為、持ちつ持たれつといった関係だったように思われます。
そういう意味では三国志の時代に、
人物批評家だけでなく、占い師が多く登場していたのもうなずけるところではありますね。
占いをやっていた人達は、
自らの名声を高めることで重く採り立てられる機会も増えるのですから・・・
管輅や江南八絶の趙達・劉惇・呉範などは、
数多くいた占い師の中でも飛びぬけた存在だった者達です。
占い師として高い名声を獲得していたことがきっかけで、
管輅は魏に、趙達・劉惇・呉範は呉に重く用いられています。
ちなみにですが曹操の名声を大きく高めた橋玄・許劭の二人は、
人物批評家の中でも飛びぬけて有名な二人だというのは言うまでもありません。
その理由は言わずもがな曹操を高く評価した人物だからですね。
ただ今回紹介する橋玄は人物批評家として優れていただけでなく、
後漢王朝のもとできちんとした結果を残してきた人物でもあります。
橋玄(きょうげん)
蒼天航路(2巻140P)より画像引用
橋玄が若かりし頃、県の功曹になっています。
正義感が強かった橋玄は、
陳国相であった羊昌が行ってきた贈収賄について許すことができず、
豫洲刺史であった周景に面会を希望し、
自らを羊昌の陳国従事に任命してくれるように直談判しています。
周景は橋玄の申し出を許可し、
橋玄を陳国従事として現地に送られる事になったわけですが、
橋玄は陳国従事として羊昌を徹底的に調べ上げます。
羊昌が橋玄からきつい取り調べを受けている事を聞き、
当時大将軍として朝廷を牛耳っていた梁冀は、羊昌を救うべく橋玄を中央に呼び寄せようとしました。
しかし橋玄は、梁冀の言う事を聞かず、
橋玄はこれまで以上に羊昌を厳しく取り調べ、最終的に羊昌の罪を認めさせたのです。
このことがあってからというもの、
橋玄の名が多くの者達に知ら渡るようになっていきました。
軍人・政治家としての一面
橋玄は法の番人としてのイメージだけでなく、
橋玄は北方民族である鮮卑・南匈奴からの侵攻を何度も撃退し、
また朝鮮半島で勢力を誇っていた高句麗からの侵攻を防ぎ切り、
三年間にわたって、任された任地を見事に治めきる功績を上げています。
これらの点からみると、
橋玄は単に法に厳しい人物だという面だけでなく、
軍人・政治家としての一面も併せ持った人物だという事が分かります。
それからも橋玄は順調に出世をしていき、
霊帝の時代には九卿を経てから三公にまで昇り詰めています。
このように内外にあって見事な結果を残した橋玄は、
「入りては相、出でては将」と言われる理想的な人物でもあったわけです。
橋玄の最後
橋玄は黄巾の乱が勃発する前年の183年に病にかかり、
75歳でこの世を去っています。
橋玄は三公まで昇り詰めたにもかかわらず、
その権力を利用して、一族(身内)の者を重く採り立てることは全くないほど清廉でもありました。
また私腹を肥やすことも全くなく、
これだけ高位にありながら貧しい生活を送っています。
そして橋玄が死んだ際もお金が残ってなかった為に、
橋玄の残された家族は、遺体を納棺して安置させるほどの場所すら用意できなかったそうです。
それを知った民衆らは、
改めて橋玄の清廉潔白さに大変感心したといいます。
曹操と橋玄の逸話①
蒼天航路(2巻141P)より画像引用
曹操が若かりし頃、まだまだ無名に近かった時の話ですが、
橋玄の元を曹操が訪ねた事がありました。
この時、橋玄は曹操に対して、
「天下は今乱れようとしている。
天下の乱れを治める事ができる人物は、
人並み外れた才能を持った人物でないと無理である!!
もしかしたらその才能を持った人物は曹操殿かもしれない。」と高く評価したわけです。
また橋玄は、「わしはもう年を取ってしまった。
もし可能であるならば、私の妻子を曹操殿に任せたいものだ!」
といったような話も残っています。
そして曹操の名声を更に高めるために、
人相見として有名であった許劭(許子将)を紹介してあげています。
橋玄は知らなくても、許劭は知ってる方も多いでしょう。
「治世の能臣、乱世の奸雄」と曹操を評価した事で有名な人物なのですから・・・
曹操と橋玄の逸話②
蒼天航路(2巻144P)より画像引用
曹操はほとんど無名であった自分を高く評価してくれただけでなく、
許劭を紹介してくれたことも含めて大変感謝していました。
曹操の父である曹嵩は、宦官であった曹騰の養子となっていますが、
実の父親であった曹嵩以上に橋玄のことを尊敬していたとも言われています。
若かりし頃の曹操にとって、
それほどまでに橋玄という人物が大きな存在であったのでしょうね。
後に曹操が官渡の戦いで袁紹に勝利した後である202年に、
橋玄のことを想って橋玄を祀っています。
そして昔の橋玄との逸話を思い出すように、
「橋玄殿が自分の墓の前を通るようなことがあった時は、
酒一斗とキジ一羽を私の墓に捧げてくれなければ、
墓を通り過ぎて少ししたら腹痛に襲われるから忘れないようにね」と語ったというような話も残っています。
また曹操は「橋玄殿は優れた人物であり、
国家の姿勢として橋玄を見習うべきものがたくさんある。
そしてもし橋玄殿に自分が会わなかったならば、
大きな名声を得る事もなかっただろうし、今の自分はなかっただろう。」
と言って、橋玄の事を懐かしんだそうです。
橋玄が「治世の姦雄(かんゆう)」と言った話は本当?
蒼天航路(2巻142P)より画像引用
許劭が曹操を見て「治世の能臣、乱世の奸雄」といった話は有名です。
ちなみに蒼天航路にも記載されている、
「治世において姦雄の類だろう」と言っている文脈があるのですが、
これは許劭の言葉を橋玄の言葉として、
使っているのだろうと思われる方も多いかもしれません。
しかし、次のような話が「世説新語」に残っています。
「世説新語」には後漢末から東晋までの人物の逸話が沢山紹介されており、
もちろんのこと三国志時代の人物も登場しているのですが、そこに次のような逸話が書かれています。
曹操が橋玄と出会った時に、
「天下は大いに乱れている。
そんな中で天下を治める事ができるのは曹操殿だけじゃないだろうか!?
曹操殿は乱世の英雄であるが、治世の姦賊でもある」と言った記載が見られます。
それ以外にも
「私はもう年おいてしまったから曹操殿の活躍をおそらく見られないだろうけど、
私の子孫達は曹操殿と関係を持つこともあるだろう」と言った話も・・・
許劭が曹操を「治世の能臣、乱世の奸雄」と評価したことと似たような感じで、
橋玄も曹操を「乱世の英雄、治世の姦賊」と評価していたということでしょう。
そう考えると許劭の言葉は、
橋玄が曹操を評価した言葉を少しもじっただけのように思えたりしますね。