「魏志」方技伝(正史)に記載されている人物として、

華佗(医術)管輅(占い)が圧倒的に有名ではありますが、

 

占いの分野で「方技伝」に名が残る人物は、

他にも杜夔・朱建平・周宣の個人伝が立てられています。

 

 

華佗は医師、管輅・朱建平・周宣は占い師(予言師)として名を残していますが、

 

ここで一番と言っていいほど外してはいけないのが、

同じく「方技伝」に名を残している杜夔ときという音楽家になります。

朱建平 -正史「方技伝」に名が残る人相見(占い)の達人-

周宣 -正史「方技伝」に名が残る夢占いの達人-

杜夔(霊帝時代~劉表時代)

杜夔は「魏志」方技伝に名を残している人物ですが、

 

杜夔は霊帝に仕えていた人物であり、

音に関する事にも詳しかったこともあり、雅楽郎として仕えていました。

 

 

しかし黄巾の乱などで各地が乱れ、杜夔自身も病を患ったことで官を辞しています。

 

 

それからしばらくして、

杜夔が州徒郡司に任じられたことで荊州へと向かうのでした。

 

現地に赴いた杜夔に命じられた役割は、

劉表から帝の為に音楽(演奏)の準備するというものでした。

 

 

杜夔の準備が整うと、劉表は真っ先にそれを庭で見物しようとしたのですが、

ここで杜夔は次のように言ったとされています。

「帝の為に準備した音楽であるのに、

それを軽はずみに庭で見ようとされているのか!?」

 

これに対して劉表は、自分の態度を深く反省したといった逸話が残されていますね。

杜夔×軍謀祭酒

劉表に仕えていた杜夔だったのですが、

建安十三年(208年)に大きな事件が発生したのでした。

 

それは荊州刺史であった劉表の病死ですね。

 

そして劉表の次男である劉琮が跡を継いだわけですが、

このタイミングで曹操が荊州へと侵攻を開始してきたわけです。

 

 

しかし劉琮は曹操に抗うことはなく曹操に降伏したことで、

自然と杜夔も曹操に仕えることとなります。

 

曹操は杜夔を「軍謀祭酒」に任じて迎え入れ、

「太楽(宮廷音楽の担当)」を司らせ、新しい楽曲の作成などを任せています。

 

 

「軍謀祭酒」と書きましたが、この「軍謀祭酒」という言葉が出てくるのは、

三国志の書物の中でも一部の「伝」にだけなんです。

 

それは杜夔の話が収められている「方技伝」と、

他には三国志「魏書」の21巻の王粲伝&建安七子について書かれているところです。

 

 

記載されている内容は、路枠ろすいという人物が「軍謀祭酒」に任じられた際に、

「陳琳・阮瑀(建安七子)らと記室を担当した」というものですね。

 

また王粲伝にもあるように、王粲も「軍謀祭酒」に任じられた一人ですね。

 

 

とりあえず「軍謀祭酒」に任じられた人たちは、

文才面での才能があった人達が任じられていることからも分かるように、

 

曹操が杜夔の音楽面での才能を高く評価したという証明でしょう。

音楽の才能をいかんなく発揮した杜夔

 

優れた音楽の才能を持っていた杜夔ですが、

その才能は八種の楽器を演奏できるほどだったといいます。

 

ただ杜夔にも苦手な分野はあり、

歌ったり舞ったりといったことを苦手としていたようですね。

 

 

ただ杜夔は自分の才能を活かして音楽家の育成にも力を入れつつ、

新しい楽器の制作にも取り組んだりしています。

 

それだけではなく、失われた先代の古楽(古い音楽・曲)を復元したりと、

当時の音楽分野に大きな影響を与えたのでした。

 

 

その為に先代や当時の楽器や楽曲が後世に伝えられたのは、

全て杜夔の功績だと言われているほどです。

 

それにより杜夔は太楽令・協律都尉に任じられたのでした。

鐘鋳造の名人「柴玉」との逸話

鐘の鋳造の名人として名が通っていた柴玉と言う人物がいましたが、

杜夔と柴玉に関する逸話が残されています。

 

 

杜夔が鐘造りの名人であった柴玉に対して、

銅鐘をつくってくれるように命じたことがありました。

 

しかし柴玉が作った銅鐘には音律の問題があると判断して、

新しく作り直すように再び命じたのですが、そのやりとりが何度か続いたのでした。

 

しかしこのやり取りに対して逆恨みしたのが柴玉で

「杜夔の音感に問題がある」として、曹操に対して杜夔を訴えたといいます。

 

 

そこで曹操はどちらの考えが正しいのかを試したところ、

杜夔が正しく、柴玉が嘘を言っていたことが判明したわけです。

 

ここで曹操は柴玉が嘘をついていたことに大変に怒り、

柴玉だけでなく、柴玉の息子達も連名で罰し、「馬を育てる」という養馬士に任じたのでした。

曹丕に疎まれた杜夔の最後

 

杜夔と柴玉の問題に決着がついたわけですが、

この結果に快く思わなかったのが、以前より柴玉と仲良くしていた曹丕でした。

 

 

ある時に曹丕が宴会を開いた際に、

杜夔に琴・しょうの演奏を命じたことがあったのですが、

 

宮廷音楽に関することを専門としていた杜夔は、

宴会の席などで演奏することを不快に思ったようです。

 

 

そんな中で曹操が没すると、杜夔の立場は完全に悪くなり、

過去の恨みから曹丕は、杜夔を捕らえて獄に繋いでしまったのです。

 

まぁこういったことは他にもたくさんあったわけですが、

「曹丕の人となり」をよく表す一例ですね。

 

 

しかしそれとは裏腹に、曹丕も杜夔が優れた人物であったことは認めており、

杜夔から音楽に関する様々な事を習得させようとしたようですが、

 

杜夔は曹丕から習うように命じられた者達に音楽を教えることはなかったのでした。

 

 

最終的に曹丕は、杜夔の命を奪うまではせず、

杜夔の官位を奪って追いやったことで決着を迎えたわけです。

 

その後も杜夔が復職するということはなく

不遇の状態でこの世を去ったのは惜しまれますね。

 

ただ杜夔が後世に与えた影響が、計り知れないものであったことだけは間違いないでしょう。