劉璋に仕えた忠臣として必ず上がる人物に、

厳顔と張任の二人の名が挙げられる事が多いですが、

 

今回はそんな「忠義の士」としてのイメージが根強い厳顔について見ていきます。

巴郡太守、厳顔(げんがん)

厳顔は益州巴郡出身だったこともあり、

劉焉が益州にきてからというもの劉焉に仕えています。

 

劉焉が死んでからは跡を継いだ劉璋に仕え、巴郡太守を任されていました。

 

 

劉備が張松・法正・孟達の招きに応じて入蜀の野望を抱くと、

張魯討伐という口実を元に益州に入ってきます。

 

これには王累・黄権・劉巴などが大反対したりしていますが、

この時に厳顔が劉備に対して反対したというような資料は残っていません。

 

おそらく巴郡太守として、

なんとなく劉備の動向を見守っていたんじゃないかと思いますね。

 

 

しかし劉備が巴郡まで来た時には、次のような言葉を残しています。

 

劉備を招くことはのんびりと一人で山奥に座り、

自分自身を守る為猛虎を放し飼いにしているのと同じようなものだ!」

と劉備を招き入れた事が、今後劉璋政権に及ぼす影響の大きさを考えて嘆いたそうです。

張飛との激突

横山光輝三国志(34巻188P)より画像引用

 

劉備軍の勢いはすさまじく、

厳顔が守る巴郡にも劉備軍の張飛が攻めてきます。

 

これに対して厳顔は張飛相手にひるむことなく戦いますが、

兵力差があったこともあり、張飛に敗れて捕らえられてしまいました。

 

 

そして捕らえた厳顔に対して、

「捕虜になったのだからさっさとひざまずけ、厳顔!

それにしてもお前は、何故降伏せずに抵抗したのだ!?」と張飛が罵ります。

 

 

これに対して厳顔は、

「お前たちは、礼儀もわきまえず益州を侵略してきている!

 

益州には首をはねられる将軍はいても、

降伏するような将軍は一人もいない!!」返答。

 

この厳顔の返答に怒りを覚えた張飛は、厳顔の首をはねるように命じます。

 

 

しかし厳顔は、これから首をはねられようとしているにも関わらず、

 

「首を斬りたいのなら早く斬れ!

それだけで済む事なのに、わざわざ私の言葉に怒りを覚えてどうする!!」

と張飛を更に罵ります。

 

死を目の前にした厳顔の態度を見て、逆に厳顔という人物にほれ込みます。

 

「もしも自分も同じような状況ならば厳顔と同じような発言をするだろう」

と自分自身に重なるところが見えたのかもしれませんね。

 

 

そして張飛は厳顔を縛っていた縄をほどき、大事な客人として迎えようとします。

 

また張飛がただの侵略者でないと感じた厳顔も、

張飛に好感を抱き、張飛の招きに応じる事となったわけです。

 

その後、厳顔は劉備と対面し、劉備の臣下の一人として仕える事となったようです。

厳顔が降伏したことで開けた道

厳顔が張飛に降ったことで、

張飛軍のその後の行軍はスムーズなものとなりました。

 

その理由は、厳顔は巴郡太守を任されていた事で、

雒城までの全ての道筋を厳顔の部隊が守っていたからです。

 

厳顔が降伏したことで、守っていた厳顔の部隊との更なる衝突を避ける事が出来た為に、

張飛はスムーズに雒城へと向かう事ができたといいます。。

 

 

ただこのルートに関して、

きちんとした記載が正史に書かれている事でもないために、

 

完全にスムーズに進行できたのかは定かではない点はご容赦ください。

 

それ以後も劉備に懸命に仕えていたと思いますが、

それからの厳顔がどうなったかなどの記録は残っていません。

 

 

ここまで厳顔が巴郡太守であったことを前提に話してきましたが、

 

ここで一点だけ補足しておくと、

「華陽国志」には巴郡太守は厳顔ではなく、趙筰ちょうさくが太守であったと書かれていますけどね。

 

ただ「華陽国志」は347年に常璩じょうきょによって編纂されたものだから、

「陳寿の三国志が正しいだろ!?」と思われるかもしれませんが、

 

「華陽国志」の方が正しかった可能性が十分にあると思っています。

 

 

何故なら巴郡出身であった厳顔が、

そもそも巴郡太守になれないという一般的なルールがあったからですね。

三国志演義での厳顔

横山光輝三国志(38巻190P)より画像引用

 

三国志演義での厳顔は、

正史同様に張飛と戦って敗れて、その軍門に降っています。

 

その後劉璋が劉備に降伏すると、厳顔は前将軍に任じられたそうです。

 

 

漢中攻略戦では、黄忠との老将コンビが有名ですが、

正史では黄忠と組んだような記載は全く見られません。

 

また厳顔は漢中攻略戦で夏侯徳を討ち取っていますが、

夏侯徳は三国志演義だけに登場するキャラクターになりますね。

 

三国志演義でもその後の厳顔の登場はなくなっていき、

最終的にどうなったかは不明です。

 

 

横山光輝三国志(38巻140P)より画像引用

 

ちなみに老将コンピである相方の黄忠はというと、

夏侯淵を討ち取っていますが、これは正史でも演義でも同様の記載が見られます。

 

 

そして関羽復讐戦として劉備に従って、黄忠は夷陵の戦いにも参加していますが、

一方の厳顔はというと、夷陵の戦いにも参加していません。

 

そのあたりから推測しても、

漢中攻略戦以降、病死などでひっそりと消えていったということでしょうね。

厳顔が前将軍に任じられたことへの疑問点(三国志演義)

益州を攻略した時の劉備の官職は「左将軍」です。

 

左将軍は官職としては三品官の立ち位置になり、

左将軍と同様に前将軍・後将軍・右将軍というものが同列としてあります。

 

 

厳顔がいくら優れた人物であったにしろ、

 

劉璋陣営から降ったばかりの人物で、

自分と同列の前将軍に任じる事など一般的に無理がありすぎます。

 

 

それに関羽や張飛を差し置いてとなると、

この二人もさすがに黙っちゃいないかなと思うわけです。

 

まぁ劉備が左将軍でしかないのに、

前将軍に任じることなどそもそもできませんけども・・・

 

 

ちなみに三国志演義では「五虎将軍」として紹介されていますが、

  • 前将軍:関羽
  • 右将軍:張飛
  • 左将軍:馬超
  • 後将軍:黄忠
  • 翊軍将軍(雑号将軍):趙雲

 

前後左右の将軍(三品官)の4人に対して、

趙雲がそれより低い翊軍将軍の立場で五虎将軍にいれられているのは、

 

正史で「関張馬黄趙伝」と5人の事がまとめて書かれている点などから、

関羽・張飛・馬超・黄忠に趙雲を加えて「五虎将軍」として三国志演義で書かれたわけです。

 

ただ4人を前後左右将軍に任じた時の劉備は、

劉備が漢中王を名乗った時なのでまた話が全く違うんですけど・・・

 

 

また関羽が前将軍に任じられた際に、

新参者であった黄忠と同列であることに文句を言った話は結構有名です。

 

もし厳顔が劉備と同列の位をどうにかしてもらっていたとすれば、

厳顔は劉備と同じ立ち位置になるのですから、関羽のはらわたは煮えくり返っていたかもしれませんね(笑)

 

 

まぁいくつかの視点から見ても、

劉備の益州攻略後に厳顔が「前将軍」に任じられたというのは、

 

明らかに「三国志演義」を編纂した羅貫中のミスだといわれています。

厳顔は老将なのか?

三国志演義でのイメージがつきすぎてることもありますが、

厳顔が老将という話は正史に全く出てきません。

 

 

ここで少し気にしてみたいのが張任です。

 

三国志演義での張任は、若武者のような感じで描かれていますが、

 

正史では劉備に捕らえられた際に「老臣は二君には仕えぬ!」と言ったように、

自分自身の事を「老将」と言っています。

 

張任はもともと貧しい家の出身だったこともあり、

出世するのにはかなり時間がかかったと思うんですよね。

 

実際家柄というのは非常に大事にされていたのが当時の状況でもありましたし・・・

だから張任が老将だったのは間違いない事かと思います。

 

 

おそらく厳顔と張任の二人は、

どちらも「忠義の士」「頑固者」といったようなイメージがあり、

 

羅貫中が編纂した時には、二人の書かれ方が混同していたような気がします。

 

なので厳顔の記述が張任の記述みたいな感じになり、

張任の記述が厳顔の記述みたいな感じになった点は少なからずあるんじゃないかと思うわけです。

 

それが三国志演義の爆発的な人気と共に定着し、

厳顔は老将としてのイメージが非常に強くなったものと思います。

 

 

ただ厳顔が若武者だったかというとそうではない気はします。

その理由は張飛が厳顔を認めた点です。

 

知ってる人も多いでしょうけど、

張飛は家柄が良い者や年上の者に対して敬うという一面があったので、

 

厳顔は家柄も良く、張飛よりも年上であったかもしれませんね。

だからこそ最終的に張飛は厳顔を大事に扱った気が少なからずしています。