劉備が益州への侵略を開始した際に、

劉備を撃退する為に劉璋に提案した幻の戦略がありました。

 

それが今回紹介する「焦土作戦」というものですが、

もし実行されていれば、劉備が益州を手に入れる事はなかったかもしれませんね。

「焦土作戦」発案の背景①

劉備が張松・法正・孟達の呼びかけに応じ、

益州を治める劉璋を攻めるために益州に入るわけですが、

 

当初劉備は劉璋を助けるために外敵であった漢中の張魯を倒すという名目で、

荊州から益州へ軍を進めてきました。

 

 

しかし劉備が荊州の情勢が緊迫していた事と、

張魯が進軍してこない事を理由に一旦荊州へ戻ろうと考えたといいます。

 

本当に荊州に帰ろうとしたのかは正確には不明ですが、

この時に荊州へ戻る為に軍需物資を劉璋に頼んだわけですけど、

 

劉備が要求したものに対して半分にも満たない量しか送ってきませんでした。

 

 

軍需物資を少なめに送った理由として、

劉璋臣下の中でも劉備に疑いを持つ者も多くおり、

 

劉備を警戒してのことだったと思いますが、

この件があったことで劉備は龐統の意見を取り入れて益州侵略に乗り出しています。

 

 

ちなみにですが、劉備が荊州へ帰ろうとした話を聞いた張松が、

劉備の真意をはかるために手紙を書くのですが、

 

それが兄である張粛によって見つかり、劉璋に密告された事で張松は処刑されてしまったわけです。

 

 

鄭度に関する資料はあまり残っていませんが、

「焦土作戦」が提案される背景として劉備の侵攻が前提にあったということです。

「焦土作戦」発案の背景②

張魯討伐の名目で葭萌関かぼうかんに滞在していた劉備軍でしたが、

龐統の進言もあり、まず白水関を守る楊懐・高沛を斬り捨てて白水関を占領します。

 

そして黄忠・魏延らを率いて成都攻略への進路を取ることになります。

 

ちなみにこの時に劉備は、楊懐・高沛を斬り捨てて白水関を占領していますが、

劉備の軍師を務めていた龐統は三つの策を提示していました。

  1. 上策:精鋭を引き連れて成都を急襲して成都を攻略する
  2. 中策:白水関の楊懐・高沛を荊州へ帰還する事を名目に呼び寄せて討ち取る
  3. 下策:一旦荊州へ帰還してから、その後のことを思案する

 

その中で劉備が選んだのが、

攻める事も引く事もできる一番無難な中策だったという事になりますね。

 

 

もともと白水関を守る楊懐・高沛の二人は、

劉備を荊州へ返すように劉璋に何度も進言していた事もあり、

 

劉備が帰還するというそぶりを見せれば、

喜んで軽装で見送りにくると龐統は読んでいました。

 

そして龐統の読み通り、軽装でやってきた楊懐・高沛を討ち取り、

楊懐・高沛の兵を吸収する形で白水関を占領することに成功!

 

 

この時に鄭度という人物が提唱したのが「焦土作戦」であり、

 

もしこの「焦土作戦」が実行されていれば、

劉備軍は成都を攻略できるどころか、敗北させられた可能性は十二分にあったかなと思います。

鄭度(ていど)の「焦土作戦」とは?

劉備が白水関の楊懐・高沛を斬り捨て、

成都への進軍を開始した際に、劉璋の従事をしていた鄭度は焦土作戦を提案します。

 

その内容は次のようなものでした。

「劉備は遠路はるばる遠征して、劉璋様が治める益州へ侵攻を開始していますが、

劉備軍の総勢は一万人もおらず、益州での人心も掌握していません。

 

劉備軍は食糧確保に困っており、

今の状況下でも草を食料として食べたりしているようです。

 

その上に食糧を運ぶ為の馬車もないときています。

 

 

そこで巴西郡・梓潼郡の民衆を全て涪水以西に移動させ、

劉備軍の食糧張達の元となる倉庫や田畑を全て焼き払ったうえで、

 

防塁を高く築き、堀を深くして劉備軍を待ち構えておくことがよいと思われます。

 

 

そして劉備軍が成都へ迫り、戦いを挑んできても無視してください。

 

劉備軍はどうせ食糧難に陥り、百日もせずして撤退せざるを得なくなるでしょう。

そこでこちらから追撃をかければ劉備を捕らえる事も可能です!」

この提案を聞いた劉璋は、

「民衆を守る為に敵を防ぐというのは聞いたことあるが、

逆に民衆を移動させて敵を防ぐとは聞いた事がない」と鄭度の提案を一蹴してしまいます。

 

 

これにより鄭度の「焦土作戦」は実行されることなく、

幻の策略となってしまったのです。

 

もし実行されていれば・・・

劉備と法正の逸話

劉備が鄭度が推奨した焦土作戦の話を小耳にはさんだ際に、

劉備は「そんなことされたらやば過ぎるわ!」といった感じで非常に焦ります。

 

そんな劉備に対して法正は、

「劉備殿、劉璋が鄭度の焦土作戦を採用する事なんてないので心配無用ですよ」

と一言声をかけたわけです。

 

法正の言葉を聞いた劉備は安心して、

その後も成都へ向けて進軍を続けていく事になります。

 

 

実際、法正の読み通り、

劉璋が鄭度の焦土作戦を実行する事はありませんでした。

 

そして焦土作戦が取り上げられなかっただけでなく、

焦土作戦を提案した鄭度は、劉璋によって罷免されてしまいます。

 

そしてその後の鄭度の行方は不明で、

完全に歴史の舞台から姿を消してしまうのでした。

「華陽国志」に記載されている焦土作戦への評価

鄭度の焦土作戦に関連する事は、三国志「蜀書」法正伝にも記載が残ってたりしていますが、

蜀の人物の記載の多くが実際残っていません。

 

それは蜀に歴史を記録するような機関を設置していなかったのが原因で、

有名な人物でさえも断片的にしか記録が残っていないんですよね。

 

 

そんな中で鄭度の焦土作戦について残されているものに、

東晋(晋)の355年に常璩じょうきょによって編纂されたのが「華陽国志」というのがあります。

 

「華陽」は蜀・巴・漢中を意味する言葉で、

古代から東晋にかけての歴史が書かれているものになります。

 

 

「華陽国志」の原本は現存していないものの、全12巻から構成されていたもので、

 

第5巻に劉焉・劉璋時代のことが、

第6巻に劉備時代のことが、第7巻に劉禅時代の事が記載されていました。

 

 

その中で鄭度が推奨した焦土作戦に関して、

 

「鄭度は正しい策略を劉璋に進言したにも関わらず、それが用いられることがなかった。」

といって鄭度の焦土作戦を高く評価しています。

 

 

そしてそれを用いなかった劉璋に対して、

 

「鄭度の策略が用いられなかったのは運がなかったというべきかもしれないが、

なにより劉璋が君主であったことが鄭度に不幸なことであった」と劉璋の暗愚ぶりを責めています。

焦土作戦に関しての考察

「焦土作戦」は民衆への負担を強いるものの立派な策略であったと思います。

 

実際に焦土作戦を実行する事で、

一時的に民衆を苦しめることになってしまうでしょうが、

 

鄭度はきちんと劉備が食糧を手に入れられなかったならば、

百日も持たずに撤退せざるを得なくなり、最終的に勝利できると推測していたわけです。

 

 

敵であった劉備を追いだすことで、

張魯という目先の敵は残るものの元の状態に戻るわけです。

 

焼き払った地は、国が手助けする形で対応すれば、

1~2年ほどである程度復興できたと思いますし・・・

 

 

なにより乱世である限り、

戦いがおこればどこでも民衆に負担はかかってしまうものです。

 

そこを気にしては乱世を生き抜く事はできませんし、

なにより100%民衆を安んずることは到底無理だと思うわけです。

 

これは劉備にしても曹操にしても孫権にしても同じです。

 

 

そして劉璋は成都を包囲されてからの戦闘で、

数十日経っているにも関わらず、成都はびくともしておらず、

 

また成都を守る将兵の士気も高く、十分な食料の備蓄もできていました。

 

 

そんな中で民衆への負担を強いるから、

 

これ以上は戦えないといった感じで最終的に降伏したわけですけど、

最初から最後まですべてが中途半端だった気はしますね。

 

 

民衆が本当に苦しむ姿を見たくなければ、

何年も戦わずに、もっと早く降伏しておくべきだったと思いますし、

 

もし戦うと決意したならば、もっと徹底的にやるべきだったかなと、

あくまで私個人の考えですが、そのように思います。