三国志でも非常に高い人気を誇る趙雲ですが、
実際の趙雲は正史だけを見た場合に「謎多い人物」でもありました。
そういうこともあって、三国志演義での趙雲の活躍が、
史実であると思ってる方も結構いたりします。
ただ三国志演義に書かれているのが、
完全に嘘だとも言えないのが趙雲の魅力でもあるんですよね。
そこには趙雲に関する正史の記載が原因だったりするんですが、
そのあたりの所にも目を向けながら、趙雲という人物を見ていきたいと思います。
趙雲(ちょううん/子龍)&劉備の出会い
趙雲は冀州常山郡真定県の出身であり、
義勇軍を率いて立ち上がった趙雲は、公孫瓚に仕官しています。
趙雲は武勇に優れた人物であり、
公孫瓚の命で各地を転戦していたようです。
そんな中で出会ったのが同じく公孫瓚の元にいた劉備でした。
これが趙雲と劉備の初めての出会いになります。
公孫瓚は劉備が盧植の元で学んでいた際に、
共に勉学に励んでいた兄弟子ということもあり、
そういう縁から劉備はこの時、公孫瓚の元で世話になっていた感じでした。
しかし劉備は、曹操に攻められた陶謙の援軍として徐州に赴くことになり、
ここからしばし趙雲と別れる事になります。
劉備は陶謙亡き後の徐州を引き継ぎ、呂布・袁術・曹操との争いを経て、
最終的に徐州を失った劉備は袁紹の元に落ち延びていました。
趙雲が劉備と再会したのは、この時でした。
趙雲が何故袁紹の元にいた劉備に出会ったのかというと、
趙雲の兄が亡くなり、喪に服する為に公孫瓚の元から去っていたことがきっかけです。
公孫瓚は、自分より能力が高い者を重く用いることがないような性格で、
趙雲の中で再び公孫瓚に仕えるという選択肢はなく、
兄の死に伴って完全に公孫瓚の元から去ったのだと思います。
だからこそ劉備という人物に惚れ込み、
趙雲は再び誰かに仕えるならば劉備以外にいないと思ったのでしょう。
長坂の戦いでの活躍
曹操が南方を攻略する為に荊州に攻め込みますが、
劉琮は戦わずして曹操に降伏してしまいます。
劉表の客将として荊州に落ち延びていた劉備は曹操に降伏する意思はなく、
劉備を慕う住民を引き連れて逃亡を試みます。
しかし曹操軍の騎兵部隊がこれに追いつき、劉備軍は手痛い被害を被ってしまうわけです。
この時に劉備の妻であり、劉禅の母でもあった甘夫人が、
阿斗(後の劉禅)と共に劉備と離れ離れになってしまいます。
趙雲は甘夫人と阿斗を見つけ出して、
助け出して劉備の元へ再び引き合わせたのでした。
三国志演義での長坂の戦い(趙雲の活躍)
三国志演義では正史の話をもとに趙雲のことが描かれています。
曹操軍の追撃によって、劉備は妻子や領民を捨てて逃げ出す始末。
その結果、甘夫人・糜夫人・糜竺・阿斗は曹操軍に捕らえられてしまいます。
しかしここで趙雲は、
必死で両夫人&阿斗を探しに曹操軍に突っ込みました。
その際に淳于導によって護送されていた甘夫人・麋竺を見つけ、
趙雲は淳于導を討ち取って二人を救出します。
そして張飛のもとに送り届けると、
まだ見つけていた糜夫人と阿斗を救出する為に、再度敵軍に突撃していきます。
そして趙雲は糜夫人と阿斗を見つけ出したわけでが、
糜夫人は大怪我を負っており、
自分と阿斗を連れて曹操軍を突破する事は不可能だと判断し、
劉備の大事な跡継ぎであった阿斗を趙雲に預け、
糜夫人は近くにあった井戸に身を投げて命を絶ってしまいます。
周りは完全に曹操軍によって囲まれており、
趙雲は阿斗を抱きかかえながら、敵陣を一騎で突破していくことを決断!
そして趙雲は曹操軍の包囲網を突破し、
劉備の元へ阿斗を届ける事に成功するのですが、
この時に劉備は趙雲が連れてきた阿斗を地面に投げ捨てます。
「赤ちゃんなのに地面に投げ捨てて大丈夫だったのか?」
といったような疑問はなしでお願いします。
阿斗を投げ捨てた劉備は趙雲に対して、
「赤ん坊はまた産むことができる。
しかし趙雲のような優れた人物は二度と得る事はできない!
あやうく阿斗の為に、趙雲を死なせてしまうところだった・・・
すまない・・・」と優しい言葉をかけたのでした。
趙雲は劉備の言葉を聞いて、感激のあまりに涙を流したのです。
その後の趙雲の活躍&評価
長坂の戦い後、趙雲は牙門将軍に昇進し、
劉備が劉璋が治める益州攻略をはたすと、翊軍将軍に任命されます。
223年に劉禅が即位した際には、征西将軍に昇進。
そして227年の第一次北伐の際は、
諸葛亮の陽動部隊として曹真と戦っています。
街亭を守っていた馬謖が張郃に敗れ、
諸葛亮率いる蜀軍は退却を余儀なくされてしまいますが、
陽動部隊として動いていた趙雲も曹真によって破られてしまいます。
実際曹真は趙雲の部隊よりも少ない兵力だったそうですが、
趙雲を見事に撃退したわけですね。
ただ趙雲は曹真に敗れたとはいえ、
曹真を引き付けるといった陽動部隊としての役目は果たしており、
敗北して退却する中でも、趙雲は味方の被害を最低限にとどめ、
見事な撤退をやってのけたといいます。
趙雲は曹真を見事に引きつける働きはしたものの、
曹真に敗れてしまったことで鎮軍将軍に降格されてしまうのでした。
※諸葛亮自身も降格しており、戦犯の馬謖は処刑されています。
そして229年、趙雲は亡くなってしまいました。
この時に諸葛亮が趙雲の死を嘆き、
「我が片腕を無くしてしまったようなものだ」と趙雲の死を惜しんでいます。
また三国志著者の陳寿は、
「黄忠と趙雲の二人は勇猛な人物であり、
二人は蜀軍の爪牙だった。
それはまさに劉邦に仕えた灌嬰・夏侯嬰のようなものだ!」
と高い評価をしています。
日本でも大変人気の高い趙雲ですが、
実際正史に記載が沢山残されているかと思いきや、
三国志演義などのイメージとは裏腹にほとんど記録が残っていません。
これは蜀(漢)が建国されて後、
記録がきちんと整理されなかった為だと言われており、
実際のところ、趙雲だけではなく、
蜀の人物は記録があまり残されていない人が多いんですよね。
趙雲に対する記録&待遇の疑問点
正史に書かれている趙雲に関することは、
「蜀書」の中の関張馬黄趙伝に書かれています。
これは関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲について書かれた「伝」ですが、
趙雲以外の者達は、前・後・左・右将軍に任じられた者達です。
それに比べて趙雲は、翊軍将軍という格下の将軍職になっています。
にも関わらず・・・・
陳寿は関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲を一括りに記載しているのです。
趙雲は劉備の護衛的役割が多く、
他の四人に比べて戦場で大きな活躍する場が少なかった為だとも言われたりしていますが、
実際の正史に書かれている内容だけでは、
考えられないほどの厚遇を受けていると思うんですよね。
他にも死後に諡号を贈られた数少ない一人であり、
趙雲死後、約30年ほど経った261年に「順平侯」という諡号を追贈されています。
諡号が贈られるほどの人物であり、
諸葛亮に「片腕を失ったのと同じだ」と言わせた趙雲・・・
だけれどもそれに対しての正史に書かれている趙雲の功績は、
あまりにも簡潔にまとめられすぎてるんですよね。
「趙雲別伝」の採用
趙雲の正史に書かれてある功績に対して、
趙雲の扱い方があまりに厚遇されている点に矛盾があることは上でも述べましたが、
「三国志」に注釈を加えた裴松之も同じように考えたようです。
そこで裴松之が参考にしたのが、
「趙雲別伝」に書かれている内容でした。
それを注釈として正史に加えた事で、趙雲の列伝に厚みを持たせています。
ただ「趙雲別伝」に書かれてある内容を見ると、
ちょっと怪しめなのが多いんですよね。
例えば趙雲の身長が八尺(約185cm)と書かれており、
さすがに身長を盛ってるような気もします。
ちなみに「身長盛ってるだろ?」と思われる人物は、
別に趙雲だけでないのでこの辺りの記述は軽くスルーするぐらいで丁度良いと思います。
実際このあたりのことは確かめようがありませんが、
これよりも怪しげな記載がいくつかあるんです。
まず博望坡の戦いの際には、
夏侯惇率いる曹操軍が攻め込んできた際お話ですが、
夏侯惇の部下に夏侯蘭という人物がいました。
この夏侯蘭は趙雲と同郷で、旧知の間柄でした。
趙雲は博望坡の戦いで夏侯蘭を捕らえるのですが、
夏侯蘭が優れている事を知っていたために、劉備に推薦しています。
そして夏侯蘭は劉備に仕える事になったわけです。
ちなみにこの話をもとに三国志演義でも夏侯蘭は登場していますが、
三国志演義では趙雲に捕らえられるのではなく、張飛に討ち取られています。
ただこの夏侯蘭という人物、正史に登場していないんです・・・
他にも三国志演義での桂陽郡での趙雲・趙範のやりとりであったり、
ここで登場する未亡人である樊氏との縁談を断った話などが書かれてあったりします。
この趙雲・趙範のやりとりや樊氏に関する話は、
三国志演義でも登場しているので知っている人は多いかもしれませんね。
孫夫人(孫尚香)が阿斗を連れて呉へ帰国する際に、
趙雲が阿斗を奪い返した話などもこの「趙雲別伝」に記載されている内容です。
こえらが裴松之が「趙雲別伝」から加えたりしたものが、
正史に取り入れられている感じになります。
そんな「謎」の部分を秘めている趙雲ですが、
劉備にとって、また蜀にとってなくてはならない人物だったことは間違いないでしょうね。