西涼の雄であった馬騰の長男として産まれた馬超ですが、

馬超は正史と三国志演義では、真逆のような生涯を送っています。

 

三国志演義の馬超を「明」とすれば、正史の馬超は「暗」といっていいかもしれません。

 

ここでは「暗」にスポットライトを当て、

「馬超」という人物の生涯を見ていきたいと思います。

馬超(ばちょう)/一騎打ちの記録が残る戦い

馬騰と韓遂は二人は義兄弟の契りを結んだ関係でした。

しかし涼州をめぐって、次第に二人は争うようになっていきます。

 

時には馬騰が勝利し、時には韓遂が勝利するというもので、

この戦いの中で、韓遂によって馬騰の妻子は殺害されています。

 

ちなみにですが、韓遂によって殺害された馬騰の妻子は、

馬超の産みの母親でも馬超の兄弟でもありませんし、ましてや馬休・馬鉄でもありません。

 

 

この戦いの中で、馬超と閻行えんこうの一騎打ちの記録が残っています。

 

三国時代、多くの一騎打ちが行われていたように思ってる方も多いかもしれませんが、

そう思ってる原因の9割5分は三国志演義からの影響でしかありません。

 

 

実際正史に記録が残る一騎打ちはほとんどなく、

 

今回紹介している馬超VS閻行以外に、

太史慈VS孫策、呂布VS李傕、関羽VS顔良ぐらいしかないんですよ。

 

まぁ当たり前と言えば当たり前ですよね。

 

兵を指揮する者が簡単に善戦で命をかけて戦うほうが、

普通に考えておかしいのですから(笑)

 

 

そんな稀に見る一騎打ちを繰り広げた一勝負が馬超と閻行でした。

そして結果は・・・馬超の圧倒的惨敗。

 

この戦いで危うく命を落としそうになってしまった馬超ですが、

なんとか閻行から逃げ延びることに成功!

 

 

馬超の正史に残る一騎打ちはこれだけで、

勝率で言うと100%の確率で負けていると言えるんですよね。

 

別の嫌な言い方をすれば、

「一騎打ちで一度も勝ったことのない男」とも言い換えることができるわけです。

馬超を一騎打ちで殺す寸前まで追い込んだ閻行(えんこう)

馬騰&韓遂の争いの終焉

 

激化した馬騰と韓遂の争いも終焉を迎える時が来ます。

そのきっかけは、曹操が仲介役を申し出た事によるものでした。

※実際に仲介役を担ったのは曹操の命を受けた鍾繇

 

曹操にとって袁紹との戦いの前に

何を考えているか分からない涼州の馬騰と韓遂を手懐けておきたかったのでしょう。

 

運命を分ける袁紹との戦いの際に、

馬騰や韓遂に長安方面を襲われてもたまらないですからね。

 

 

そしてこの仲介によって二人の戦いは終わりを迎えますが、

馬騰と韓遂が手を結ぶことは二度とありませんでした。

 

義兄弟を結んだ頃の二人に戻る事はなかったわけです。

曹操(鍾繇・馬超・龐徳)VS袁尚(高幹・郭援・呼廚泉)

袁紹に官渡の戦いで勝利した曹操は、

袁紹死後に袁譚・袁尚・袁煕といった袁紹遺児討伐に本格的に乗り出していくことになります。

 

その中で袁尚が曹操の背後を襲う為に、

高幹・郭援・呼廚泉(匈奴の単于)らに命じて出撃!

 

 

曹操は鍾繇・馬騰に撃退の命令を出したのですが、

この時に馬騰が馬超・龐徳に命じて出陣させています。

 

鍾繇・馬超・龐徳は、郭援を討ち取り、

最終的に高幹・呼廚泉を降伏させることに成功したのでした。

袁一族として最後の意地を見せつけた高幹

鍾繇と龐徳の逸話

ちなみに余談ではありますが、

 

鍾繇・馬超・龐徳らによって討ち取られた郭援は、

鍾繇の親戚にあたり、郭援からみて鍾繇は叔父のあたります。

 

 

龐徳によって郭援の首を見せられた鍾繇は、

 

謝罪する龐徳に対して

「郭援は反乱を起こしたのだから、君が謝る必要は全くない!」

といったという話も残っています。

馬騰の軍勢を引き継いだ馬超

蒼天航路(27巻80P)より画像引用

 

曹操が袁紹や袁紹遺児の領土を全て奪いつくし、

今度は劉表や孫権といった南方領域の制圧へ動き出します。

 

しかし曹操は涼州の馬騰や韓遂といった勢力に対して、

心のどこかで危惧していたようです。

 

馬騰や韓遂は表面上従ってはいましたが、

過去を見ても気まぐれに何度も反乱を起こしている者達だから当然ではありますね。

 

 

そこで袁尚討伐の際の馬超・龐徳の手柄という理由にかこつけて、

馬騰に入朝するように命令を出したといいます。

 

涼州という辺境の地から中央に戻ってくるわけですから、

普通に考えると出世ということになるのですが、

 

馬超は曹操の命に承諾はするものの、

なかなか曹操の元への一歩が踏み出せずにいました。

 

曹操の元へいくということは一歩間違えれば「死」との隣り合わせであり、

馬騰としては「曹操という人間」を完全に信用していなかったと思われます。

 

 

最終的に馬騰は子の馬休・馬鉄を連れて、

袁家滅亡後の曹操の本拠地となっていた鄴へ向かいました。

 

馬騰多くの一族の者達を引き連れていくわけですが、は馬休・馬鉄をはじめ、

長男であった馬超だけは涼州に残り、これまで馬騰が率いていた軍勢を引き継いでいます。

馬騰を見捨てて反乱を決意した馬超

曹操が南方政略に失敗して、

赤壁の戦いで孫権・劉備連合軍に敗れる事態となります。

 

それからしばらくして、曹操は張魯の割拠する漢中への侵攻を計画しだすのですが、

これに過剰に反応したのが馬超でした。

 

 

ただ曹操が漢中の張魯を攻めようとしたのは、

本当に攻めようとしたのではなく、

 

この時に周りの勢力で誰が敵なのかをあぶりだす為だったとも言われています。

 

「他にも漢中を攻めると思わせて涼州を襲うのではないか?」とか

「漢中を攻略した後は涼州へ侵攻してくるのではないか?」とか色々な疑問がわいたわけです。

 

 

そこで馬超は、馬騰と敵対関係でもあった韓遂に対して、

 

「私は父親を捨てて、韓遂殿を本当の父親だと思うから、

韓遂殿も子を捨てて、私を本当の子だと思ってもらいたい。」

と言って味方につけ、馬超・韓遂連合軍が結成される事になります。

 

 

馬超の父親であった馬騰は鄴に滞在しており、

韓遂もまた子供を人質として曹操に引き渡していたので、

 

馬超・韓遂が反乱を起こすことは、

暗黙の内に馬騰や韓遂の子らは殺される事を意味していたことから、

 

馬超はこのようは発言をしたことが分かります。

反乱に生涯を捧げた男「韓遂」

 

 

ただ実際は馬超・韓遂連合軍というより、

馬超・韓遂・楊秋・成宜・李堪・程銀・侯選・張横・馬玩・梁興による「関中十部」による反乱でした。

 

これから馬超・韓遂を除いて、

楊秋・成宜・李堪・程銀・侯選・張横・馬玩・梁興で「関中八部」「手下八部」なんて呼ばれたりします。

 

涼州は豪族が非常に影響力を持っていた土地で、

豪族を味方につけずして軍勢を集める事には限界があったのが実情です。

 

 

実際はどの地方も豪族を味方につけるというのは、

非常に大事な事ではあったのですが、

 

特にこの涼州とい異民族との関係も深い涼州という地では、

尚更だったのは言うまでもありません。

 

 

そして反乱を起こした十人の豪族らは、

正史ではお互い平等として位置づけられている為に「関中十部」と呼ばれ、

 

三国志演義では馬超・韓遂をメインとされたために、

他の八人を「関中八部」「手下八部」なんて呼ばれたりしています。

韓遂の手下八部(関中八部)

潼関の戦い(馬超・韓遂VS曹操)

蒼天航路(28巻13P)より画像引用

 

馬超・韓遂ら「関中十部」が反乱を起こしますが、

これは結構な規模の反乱でした。

 

そして馬超・韓遂ら連合軍は、曹操軍と激突する事になります。

 

 

両陣営は潼関で激突する事になったのですが、

曹操は馬超の急襲により曹操は命を落としかけた事がありました。

 

この時は、許褚が命がけで曹操を守って逃がした為に、

九死に一生を得たほどだったといいます。

生涯にわたって曹操を守り抜いた豪傑「許褚」

丁斐の機転

蒼天航路(184P・185P)より画像引用

 

曹操が窮地に陥った時に、

忘れてはいけないのが丁斐ていひという人物の存在です。

 

曹操が危機に陥ってるのを見た丁斐は、

牛馬を一斉に戦場へ放して、戦場を大混乱に陥らせてしまいます。

 

暴走する牛馬に殺される者、

牛馬欲しさに争う者で戦いどころではなくなったといいます。

 

 

この丁斐という人物、結構マイナーな人物の一人だと思いますが、

横山光輝三国志にも蒼天航路にもきちんと登場しており、

 

この話は知ってるという人も多い気がします。

 

 

しかし最後は曹操の賈詡による離間の計にかかり、

馬超と韓遂の信頼関係が崩れたのをきっかけに総崩れとなってしまいます。

 

馬超・韓遂が涼州の奥地へと撤退したことで、この戦いは曹操の勝利に終わったわけです。

馬騰&韓遂の一族の処刑

馬超・韓遂が降伏を決断しなかったことで、

 

潼関の戦いの翌年である212年の5月に、

曹操の元にいた馬騰や韓遂の一族は皆処刑されてしまったわけです。

 

 

馬超や韓遂が反乱を起こした際にすぐに処刑しなかったのは、

人質としてまだ利用価値があるとも思ったのでしょう。

 

それだけでなく、戦いに敗れればさすがに降伏するかもしれないから、

まだ殺さずにいてやろうなんて思っていたのかもしれません。

 

 

しかし潼関の戦いで曹操が勝利したばかりでなく、

 

逃亡を続ける馬超・韓遂に対して、

これ以上人質としての価値が完全になくなってしまったのでしょう。

 

 

 

また馬超・韓遂を除く関中八部のメンバーは、

曹操に降ったり討たれたりと・・・

 

余談ではありますが、曹操軍に降った関中八部メンバーの中で、

後に最も出世したのは、討寇将軍に昇進し、臨涇侯に任じられた楊秋になります。

馬超の再起を目指す

蒼天航路(29巻143P)より画像引用

 

曹操に敗れた後の馬超は、再起する機会をうかがっていました。

 

馬一族を引き継いでいた馬超は曹操に敗れはしたものの、

代わらず涼州での名声が非常に高かったこともあり、隴上地域の郡県が次々に馬超に味方してくれます。

 

しかし涼州刺史だった韋康いこうが守る冀城だけは、涼州刺史としての意地もあったのでしょう。

馬超にすんなり降らず、徹底抗戦の構えを見せます。

 

 

馬超は張魯からの援軍も貰いつつ、冀城を落とすべく攻め込みますが、

韋康が守る冀城がなかなか落ちません。

 

韋康は馬超に抵抗を続けながらも夏侯淵へ援軍要請を何度もします。

・・・が、一向に援軍が到着する事はありませんでした。

 

ただ実際は、一度夏侯淵が援軍を出したようですが、

臨渭付近で馬超によって撃退されていたようで、冀城に援軍が到着する事はなかったようです。

 

 

冀城を包囲する馬超軍は一万人を超えており、

これ以上冀城を守ることは厳しいと踏んだ韋康は降伏を願い出ます。

 

「最後まで最善を尽くしてやれることをやった。

後は冀城の民の命を守り、馬超に降伏しよう」といった感じだったのでしょう。

 

 

降伏を決意した韋康は開城しますが、

降伏した韋康に対して色々と思う事があって韋康を殺害してしまいます。

 

これにより馬超の再起が成功したかのように見えたわけですが・・・・

冀城の戦い&鹵城・歴城の戦い

 

隴上地域を制圧した馬超でしたが、

一つだけ大きな失敗をやらかしてしまっています。

 

それがなにかというと、涼州刺史だった韋康を殺害してしまった事です。

 

韋康を慕う者も多く、特に韋康の部下だった楊阜は、

馬超に対して大きな恨みを胸に潜ませることとなったわけです。

 

 

そして次に馬超がやってしまったことは、

恨みを持った楊阜ようふをはじめ、韋康の部下達を自分の部下として取り込んだことです。

 

楊阜は仇討ちの為に、歴城にいた従弟の姜叙きょうじょを誘い、

続けざまにの趙昂・尹奉といった同郷の者を仲間にいれていきます。

 

そして梁寛(安定郡)・趙衢ちょうく(南安郡)らまで引き込み、

準備が整った所で馬超に鹵城で反旗を翻したわけです。

 

 

これにすぐさま馬超は反応し、鹵城攻略へ乗り出しますが、

 

逆に馬超が留守になった冀城が襲われ、梁寛・趙衢は冀城を落とすことに成功。

冀城にいた馬超の妻子は処刑されてしまいます。

 

 

一方の鹵城へ出陣した馬超ですが、鹵城から歴城に標的を変え、

歴城を落とすことに成功します。

 

ただ冀城を落とされた事で身動きができなくなった馬超は、

歴城を焼き払って、漢中の張魯の元へと落ち延びていく事に・・・

 

 

ちなみに歴城を落とした際に、

馬超は歴城に滞在していた楊阜や姜叙の一族を処刑しています。

 

この戦いはお互いの一族を処刑しあうという悲しい戦いでもあったのです。

劉備への仕官

 

張魯の元に身を寄せた馬超ですが、

その後も張魯の兵を借りる形で何度か涼州奪還に赴いたようですが、

 

涼州を奪還する野望は果たされる事はありませんでした。

 

 

そして馬超は劉備が益州攻略をしている益州に向かう為に、

 

残された数少ない一族であり、馬超の子である馬秋を張魯に人質として預け、

張魯より借り受けた兵を率いて益州の劉備の元へと向かったそうです。

 

 

ただこの時の馬超のルートが、武都郡を経ての氐族の居住地へ行ったりと、

少し意味不明なルートを辿っています。

 

それから益州攻略中の劉備からの誘いに乗る形で、

劉備のもとへと馳せ参じています。

 

このあたりから考えるに、張魯から兵を借り受けたものの、

「半分突発的な行動だったのではないかな?」という気がしています。

 

 

ちなみに長らく馬超と共に行動をしていた龐徳ですが、

龐徳は漢中に居残る形で、二人は別々の道を歩みだしたことに・・・

 

また張魯の元に人質として残された馬秋は、

曹操が漢中を攻略した際に、張魯によって殺害されています。

劉備の馬超への期待

劉備の元に馳せ参じた馬超ですが、

馬超が来たことを誰よりも喜んだのが劉備だったと言われています。

 

劉備は成都を包囲していた最中でしたが、

馬超が到着すると、「これで益州は手に入れたも同然だ!」と言ったそうです。

 

そして馬超の名は劉璋の元にも届いており、

劉備の元に馬超が来たことで、完全に戦意喪失して降伏したとも言われています。

その後の馬超・・・

劉備は馬超を厚遇しまくり、平西将軍に任命。

 

劉備が左将軍の時なので、劉備と同じ三品官にあたる為、

どれだけ劉備が馬超に期待したかが伺える話でもあります。

 

漢中攻略戦にも参加した際には、主だった活躍はなかったようですが、

関羽・張飛・黄忠同様に前後左右将軍のうちの左将軍に任命されています。

 

これがもととなり、

三国志演義では五虎将軍の一人として馬超が数えらました。

 

劉備が皇帝を名乗った221年には驃騎将軍に昇進しています。

しかしその翌年、47歳で生涯に幕を下ろしてしまうこととなりました。

 

 

馬超は自分のせいで多くの馬一族が処刑されまくってきたことで、

臨終の際は残された一族のことを心配したそうです。

 

それは次のようなものだったといいます。

 

「馬家として残されたのはもう馬岱しかいません。

今にも途絶えようとしている馬岱の事を宜しくお願いします。今の私に他の望みはありません」と劉備に託して・・・。

馬超と関羽の逸話

馬超が劉備の臣下になった際に、

遠く荊州の地にいた関羽は馬超が気になってなりませんでした。

 

それほどまでに劉備陣営での馬超の評価が高かったのです。

 

プライドの塊である関羽は、諸葛亮に馬超に関しての手紙を書いた事があり、

手紙の内容は「馬超殿はどれほどの人物だ!?」といったものでした。

 

 

この手紙を受け取った諸葛亮は、関羽におべっかを使い、

「馬超殿は張飛殿と並ぶほどの人物ですが、髭殿(関羽殿)には及びません」と返答。

 

その手紙を見た関羽は、満足したといいます。

 

関羽って調べれば調べる程こういう話って出てきますよね。