袁紹亡き後、袁譚と袁尚が後継者争いを起こしたことで、

名門袁家は没落の一途を辿っていきます。

 

そんな中で「袁家最後」といってもいい、

そんな意地を見せつけたのが高幹でもありました。

高幹 -袁紹の甥-

高幹は袁紹に仕えた人物で、古参の一人になります。

 

また古参というだけでなく、

「高」と姓は違うものの袁紹の甥にあたる人物です。

 

 

袁紹が韓馥から冀州を奪い、華北四州を手中に収めると、

高幹は并州を任されるほどの大抜擢を受けることとなりました。

 

 

一州を任されるというのは普通にすごいことであり、

 

当時高幹以外に州を任された人物は、

袁譚(青州)・袁煕(幽州)ぐらいしかいません。

 

まぁ結局は一族の者を選んでいるわけですが、

ただ高幹は文武に優れた人物でもあり、それを評価されての抜擢でもあったわけです。

袁家分裂で袁尚側に味方する

袁紹が官渡の戦いで曹操と激突し、

戦いは曹操の勝利で幕をおろすわけですが、

 

それから二年も経たないうちに袁紹が亡くなってしまいます。

 

 

そして袁紹が後継者を最後まで決めていなかったことが原因で、

袁家が袁譚派(長男)と袁尚派(三男)に分裂・・・

 

 

この時に元袁紹の配下たちが、

二人を持ち上げてしまった事で大きな亀裂となっていきます。

 

袁譚を持ち上げた主要人物に郭図・辛評がおり、

袁尚を持ち上げた主要人物には審配・逢紀がいました。

 

 

基本的に仲が良い者同士がタッグを組んだ形です。

ちなみに并州の高幹は袁尚に味方していますね。

袁譚・袁煕・袁尚 -袁家滅亡を加速させた袁紹の遺児達-

高幹・郭援VS馬超・龐徳

袁尚と袁譚は仲違いしながらも、

共通の敵であった曹操軍と戦う際には協力しています。

 

その際に袁尚は曹操軍の背後を襲わせるべく、

高幹・郭援に出撃命令を出しています。

 

また曹操寄りであった馬騰と密約を交わし、

呼廚泉こちゅうせんを曹操から寝返らせることにも成功させたのでした。

 

 

ちなみに呼廚泉とは於夫羅の弟であり、

於夫羅の死後に跡を継いで匈奴の単于となった人物です。

 

しかし於夫羅同様に呼廚泉も、

半ば中華に帰化しているような立ち位置であり、

 

単于でありながら、於夫羅も呼廚泉も曹操に仕えているような状態でした。

 

 

これにより曹操軍の背後をつくために動いた高幹・郭援らの兵力は、

数万にも膨れ上がっていったわけです。

 

 

これに危機感を覚えた曹操は馬騰に使者を送り、

再度味方に引きいれる事に成功しています。

 

これは鍾繇の活躍によるところが大きかったのは補足です。

 

 

そして馬騰は高幹・郭援との密約を白紙に戻し、

曹操への援軍として馬超・龐徳を派遣したのでした。

 

 

 

本来であれば高幹・郭援側で参戦するはずだった馬超・龐徳が、

敵となるわけですから、半ば同士討ちのような状態になってしまいます。

 

大将であった郭援は龐徳に討ち取られ、

残された高幹・呼廚泉も危機的状況に追い込まれていきました。

 

 

 

その後は袁譚と袁尚の関係が完全に壊れていき、兄弟争いが激化・・・

 

そして袁尚に追い込まれることになった袁譚は、

曹操と同盟を結び、袁尚の本拠としていた鄴を陥落させることに成功します。

 

 

この時に鄴城を守っていたのは審配であり、

曹操を何度も撃退する事に成功していたのですが、

 

孤立奮闘も限界がきたことで、最終的に陥落したという感じですね。

 

 

鄴陥落の話を聞いた高幹・呼廚泉は、

「これ以上はじり貧になるだけだ!」と判断すると、

 

二人は曹操に降伏を願い出て認められています。

 

 

曹操に降伏した高幹ですが、

そのまま并州の統治を任されることとなります。

 

 

普通は降将にそのまま一州を任せることは、

普通に危険な行為であったのは曹操も理解していた事でしょう。

 

ましてや袁紹の一族であり、

袁譚と袁尚はまだ生存していたわけですからね。

 

ただそれだけ高幹が優れた人物であると、曹操は感じていたのかもしれません。

袁一族としての最後の意地

袁譚と袁尚が激しく争うようになると、

袁譚は次第に追い詰められていきます。

 

そこで袁譚は本来であれば敵のはずの曹操に対して、

協力関係を持ち掛けたのでした。

 

 

この誘いを曹操が断るわけもなく、

袁紹の次男・三男である袁煕・袁尚が冀州から追い払われ、

 

その後は曹操と協力関係にあったはずの袁譚が、

曹操にはめられたような形で南皮で討ち取られてしまいます。

 

ちなみにこの時に袁譚を討ち取ったのが、

曹純率いる虎豹騎部隊になりますね。

 

 

また并州を任されていた高幹は曹操に降伏しているという有様なわけでして、

 

袁紹領地であった四州の地域のほとんどが曹操の領土になっており、

袁家も滅亡寸前まで追い込まれていたわけですね。

 

 

しかしここで高幹が曹操に反旗を翻したのでした。

曹操が鳥丸族と手を組んだ袁煕・袁尚の討伐に向かった隙をついての決行でした。

 

高幹の反旗はあくまで独断であり、

袁煕・袁尚らと示し合わせての行動ではなかったようです。

 

 

 

またこの時の高幹の動きは迅速で、

冀州から并州に向かう際に設けられていた壺関を占領し、

 

衛固・張琰・張白騎らを味方に引き入れ、曹操の領土へと攻め込んだのでした。

 

 

しかし曹操軍の反撃を受けて衛固・張琰は討死し、張白騎も逃亡・・・

追い詰められた高幹は壺関に籠城してしまいます。

 

 

そして鳥丸族遠征から帰還した曹操が大軍を率いて壺関に攻め寄せてくると、

 

三カ月の間なんとか耐え抜いた高幹でしたが、

最終的に壺関は陥落してしまいます。

 

 

壺関が落とされた事で高幹の反乱は幕を閉じたわけですが、

「袁家として最後の意地」を曹操に見せつけたと言えると思いますね。

壺関の戦いの裏話

壺関に立て籠もっていた高幹に対して、

「皆殺しにしろ!」と曹操から命令が出された事で、

 

激しい攻撃を受けることとなります。

 

 

しかし降伏しても殺されるぐらいならと、

高幹の兵士達は死に物狂いで壺関を守ったことで、

 

壺関が揺らぐことがありませんでした。

 

 

この時に曹仁は、曹操に対して次のように言ったといいます。

「城や砦を包囲する際には、

絶対に生き残れる道を残しておくべきものです。

 

現在の状態を見れば分かると思いますが、

殺されると分かっていれば、相手は死に物狂いで抵抗してきます。

 

ましてや壺関はたたでさえ堅固なのですから・・・」

 

 

曹仁の言葉を聞いた曹操は「最もな話だな」と納得し、

曹操は曹仁の考えを採用したのでした。

 

そして壺関に立て籠もっていた多くの者達が降伏し、

高幹が逃亡したことで、壺関は陥落したわけです。

曹仁なくして曹操なし

高幹の最後

逃亡した高幹に対して、曹操は追手を差し向けますが、

曹操包囲網をかいくぐって逃げる事に成功します。

 

しかしそれからしばらくして、思わぬ所で高幹が捕らえらることになります。

 

 

高幹の逃亡ルートは、

「曹操領地を横断して荊州へと逃げる」というものでした。

 

そして後少しで荊州に辿り着くというところで、

曹操の配下であった王琰に捕まってしまったわけですね。

 

 

もしここで高幹が捕まっていなければ、

袁紹と所縁が強かった劉表に仕えたりしたかもしれませんね。

 

あくまでタラレバの話ではありますが・・・

 

 

王琰に捕らえられた高幹は処刑され、高幹の首は曹操に届けられたといいます。

 

 

袁譚が討ち取られ、高幹も打ち取られ、

袁煕・袁尚の二人も公孫康に討ち取られた事で袁家は滅亡するのでした。