後漢末期の動乱の時代に振り回され、
最終的に後漢最後の皇帝となってしまった献帝(劉協)。
董卓・呂布・李傕・郭汜・曹操と様々な群雄に利用された皇帝でもあるものの、
決して暗愚な皇帝だったわけではなく、
時代の流れからどうにもならなかった献帝の生涯について見ていきます。
目次
献帝(けんてい/劉協)の誕生
第12代皇帝であった霊帝と王栄(王美人/側室)との間に生まれた子が、
第14代皇帝であり、後漢最後の皇帝となった劉協でした。
王美人は霊帝から寵愛を受けていた女性でしたし、
劉協を身籠った際に普通ならば喜ぶのが普通ですが、王美人の場合は違いました。
それは霊帝の正室であった何氏(何皇后)は、
非常に気が強い女性であったために王美人は嫉妬にあって思わぬ不幸を招くのではないかと恐れ、
身籠った劉協を堕とす為に堕胎薬を服用したほどだったといいます。
しかし薬の効果はなかったようで、劉協が誕生したわけです。
ちなみに王美人は劉協を身籠っていた時に、
「太陽を背負った夢」をみたといいます。
ただ実際に劉協を産むと、王美人が恐れていたことが現実となりました。
王美人は何皇后の嫉妬心から毒殺されることに・・・
王美人を寵愛していた霊帝はこの事実に激怒し、
何皇后を正室から廃そうとしますが、宦官らによって止められています。
劉協は産まれてすぐに母を無くすわけですが、
そんな劉協を必死に養育したのが霊帝の母であった董太后でした。
董太后は劉協を自分の子供のようにかわいがり、立派に育てたといいます。
霊帝の死と董卓の台頭
189年に霊帝が崩御すると、
董太后や宦官は劉協を皇帝に推しますが、
何皇后の外戚であった何進・何苗の勢いに負ける形で、
何皇后の子である劉弁が「少帝」として即位!
この時に劉協は渤海王に、その後に陳留王に封じられています。
少帝が跡継ぎになったはいいものの、
外戚であった何進と宦官の対立は激化していく事に・・・
そしてそれぞれの思惑から、何皇后と手を組むことにした何苗・宦官と何進が対立し、
何進は宦官におびき寄せられた形で殺害されてしまいます。
そして何進が殺された事で、何進の部下であった袁紹・袁術らが激怒して、
二千人とも言われる宦官を血祭りにあげました。
簡単に言うと、両者共倒れになったわけですね。
この時に宦官の張譲・段珪は、
劉弁・劉協を連れて洛陽から逃亡を試みます。
ここで運よく登場したのが、何進により生前に呼びかけられていた董卓でした。
まぁ正確には董卓だけでなく、
盧植・呉匡も劉弁・劉協を取り戻すために追撃していたわけですが・・・
追い詰められた張譲・段珪の二人は自殺し、
董卓らは無事に劉弁・劉協を取り戻すことに成功したわけです。
これを機に洛陽へ入城した董卓は、
この混乱を利用して独裁政治を強いていく事となります。
劉協、「献帝」として即位
董卓は第13代皇帝であった少帝が暗愚だと判断し、
少帝を己の独断で廃立し、劉協を第14代皇帝として擁立します。
ここに後漢最後の皇帝となる献帝が誕生したわけです。
董卓に擁立された献帝でしたが、完全に董卓の操り人形となってしまいました。
董卓の独裁に納得いかない者達が反董卓連合を結成し、
多くの諸侯がこれに参加したのです。
このことにより、董卓は後漢の都であった洛陽から長安へ勝手に遷都を決行!
そして董卓は歴代皇帝の墓を荒らして金銀財宝を掘り出したり、
洛陽を焼き払ったりととやりたい放題する始末・・・
これに対して王允は董卓殺害を計画し、
董卓配下であった呂布を寝返らせて董卓を殺害することに見事成功します。
これにより王允・呂布の時代がくるかのように思われましたが、
董卓の残党軍であった李傕・郭汜らに長安を襲われて敗北。
王允は処刑され、呂布は逃亡していく事となります。
これにより董卓から解放された献帝でしたが、
李傕・郭汜に代わっただけで事態は何も変わることはありませんでした。
むしろ李傕と郭汜が権力争いを始めると、
献帝の立場は更に悪くなったといっていいかもしれません。
曹操に迎えられる
献帝は李傕・郭汜に愛想をつかし始めていた矢先に、
李傕が長安から弘農への遷都を計画した為、献帝は李傕の元を離れる事を決意。
その際も郭汜が一時味方になったり、再度裏切ったり、
李傕から楊奉が裏切って献帝に味方したり、
味方であった張済が李傕側に寝返ったりとめちゃくちゃな状況が展開されるものの、
献帝は董承・楊彪・韓暹・張楊・楊奉らに守られながら旧都であった洛陽への帰還をなんとか果たします。
しかし董卓が洛陽を破壊していた事もあり、昔の洛陽の面影はなく、
途方に暮れることとなったわけです。
ここで献帝に手を差し伸べたのが曹操であり、それを提案をしたのは荀彧でした。
曹操は洛陽を復興させるにはあまりにも多額の金銭がかかることと、
莫大な時間を要する事から「許」を都とすることを献帝に提案して認めてもらったようです。
傀儡化(操り人形)
献帝は産まれてからずっと時代の荒波にもまれてきましたが、
曹操の元へきてからの献帝はやっと安定というものを手に入れたのかもしれません。
しかし献帝がそう思ったのもつかの間、
献帝は周りの者達を曹操の息のかかった者達でがんじがらめにしたような状態で、
完全に曹操の操り人形になってしまったわけです。
曹操は後漢皇帝という看板を大いに利用する事で勢力拡大に成功!
そして曹操は丞相に昇り詰め、その後「公」を経て「王」にまで昇り詰めます。
ただこの状態に長い間憂いていた女性がいました。
それは献帝の妻であった伏皇后なのですが、
曹操を殺害する機会を十年以上前から狙っていましたがその機会がくることはなく、
214年にそのことが曹操に漏れた事をきっかけに伏皇后は捕らえられて幽閉されてしまうのでした。
そして伏皇后はそのまま亡くなっています。
曹操に捕らえられた時に伏皇后は、
「また陛下の元へと私は帰ってこれるでしょうか?」と献帝に問いかけ、
献帝は伏皇后の言葉に対して、
「私もいつまで生きられるか分からぬ」と返したといいます。
そしてこの会話が、二人が最後に交わした言葉になったのです。
献帝の正妻(皇后)として曹操の娘であった曹節が選ばれる
213年に曹操が魏公に封じられた際に、
曹操の娘であった曹憲・曹節・曹華の三人が「夫人」として献帝に嫁ぎます。
そして三人は翌年の214年に「貴人」に昇格しています。
この時点で、曹操はあわよくば献帝の正妻(皇后)として、
自分の娘を据える事を考えていたのでしょう。
そして伏皇后の件があったことで、その時が到来した感じになります。
ここで献帝の正妻として選ばれたのが曹節でした。
曹節はすぐに皇后にされたわけではありませんでしたが、
それから少しして皇后に昇格しています。
曹節は曹操の娘ではありましたが、献帝を必死で支えていきました。
献帝はそんな曹節を寵愛したといいます。
後漢滅亡(曹丕への禅譲)
曹操がこの世を去り、曹丕が曹操の後を継ぎます。
しかし曹丕は皇帝になるべく、
献帝に対して強制的に皇帝の位を譲るように迫ったようです。
形式上は「禅譲」といって、
献帝から徳のある者に皇帝の位を譲るといった意味があったわけですが、
曹丕のは、「逆らえば命はないぞ!」といった感じで、
強制的に奪おうとしたのは誰の目から見ても明らかな事でした。
ただ曹丕が形式上譲ってもらう形にしたかったのは、
言葉上の響きを良くしたかったからに他ならないですね。
最終的に献帝は曹丕へ位を譲って、後漢は滅ぶこととなります。
一族よりも夫を選んだ曹節
曹節は曹操の娘として献帝に嫁いでおり、
夫である献帝から皇帝の位を奪おうとしている曹丕は曹節の兄でもありました。
しかし曹節は曹丕はもとより曹一族よりも、
夫である献帝の妻としての道を選択します。
だからこそ皇帝の位を奪おうとしている曹丕に大反対したわけです。
かたくなに反対を続けていた曹節でしたが、
最後は曹丕の使者に対して「天から祝福もされないのか・・・」と涙して、
玉璽を使者の元へ投げ捨てたといいます。
そんな曹節に対して、周りの者達は何も言えなくなったそうです。
禅譲後の献帝
曹丕に禅譲したことで、献帝は「劉協」という一人の人間に戻ります。
劉協は曹丕より同情を受け、山陽公に封じられたわけですが、
皇帝のみが使える、つまり曹丕だけが使える自分自身の呼び名である「朕」という言葉を、
皇帝から一人の人間に戻った後も使う事を許可しています。
そして一人の人間として生きる事になった劉協ですが、
曹節と共に最後まで幸せな時間を過ごせたようです。
そんな劉協ですが234年に54歳で亡くなり、一方の曹節は260年まで生きたといいます。
ちなみに曹節の生まれた年は分かりませんが、
おそらく60歳〜70歳の間ぐらいじゃなかったのかなと思っています。
自分のせいで後漢を滅ぼしてしまった劉協は、色々苦しんだりもしたでしょう。
しかし、三国時代という動乱の中で生きてきた劉協は、
曹丕に皇帝の位を奪われてから、一人の人間として初めて幸せを感じたのかもしれませんね。
最後に余談ではありますが、
劉協(献帝)が誕生した年は181年であり、亡くなった年が234年。
そして「漢帝国復興」という劉備の願いを引き継ぎ、
最後の最後まで魏打倒を目指した諸葛亮が誕生したのも181年で、
234年に亡くなっているという偶然にもなんらかの不思議な運命を感じてしまいます。