献帝には宋都・伏寿(伏皇后)という女性と結婚していた経緯がありますが、

曹操の娘である曹憲・曹節・曹華の三人が献帝に嫁いでいます。

 

曹操が強制的に嫁がせたという方が正しいかもしれませんね。

 

 

後に伏皇后が曹操殺害計画に関わったとして獄死した後に、

皇后になったのがこのうちの一人である曹節でした。

 

 

曹憲・曹華もまた皇后の次に格式の高い貴人にまで昇りつめています。

 

参考までに後漢の後宮の順位は次のようなものでした。

  1. 皇后
  2. 貴人
  3. 美人
  4. 宮人
  5. 采女

曹憲・曹節・曹華

三人の中で年齢的に長女にあたるのが曹憲、

次女にあたるのが曹節、三女になるのが曹華になります。

 

 

残っている資料自体が少ない女性達になりますが、

一般的に曹丕・曹植の妹だと言われている女性達ですね。

 

その場合卞夫人が実母になるわけですが、

正式に誰が実母なのかの記載が残っていないのが正直な所です。

 

 

もし卞夫人の娘だとした場合、卞夫人が曹丕・曹植・曹熊を生んだ後に、

2年~3年単位で三人を生んだとすれば、全員卞夫人の娘であることは生物学上可能です。

 

 

ただ卞夫人は多くの子供達を、

本当の息子・娘と同様に可愛がったということで知られる女性でもあるので、

 

もしかしたら実母は他にいて、

卞夫人が三人の育ての親だというだけかもしれません。

 

 

まぁここはどんなに追及しても、

これ以上結論が出るわけではないので次に進みますが、

 

三人とも曹操の娘であるというのは間違いなく、

三人とも同時期に献帝に嫁いでいるという事は間違いありません。

 

 

 

当初伏寿(伏皇后)が献帝の正妻でしたから、

あくまで側室としての嫁入りでした。

 

嫁入りの際には、大司農であった王邑が使者となって訪れ、

璧玉や色彩豊かな錦などが曹家に与えられた上で、華やかな式典が行われたといいます。

 

 

後に皇后となる曹節以外についてのことはほとんどと言っていいほど、

現在に伝わっていません。

 

曹華は曹節と違って内気な性格をしていたと言われている程度ですし、

曹憲についても曹華同様にほとんどのことが分かっていません。

動乱を駆け抜けた後漢最後の皇帝、献帝(劉協)

曹節と献帝の逸話&その後

曹操が220年に亡くなると、曹丕が跡を継ぐわけですが、

曹丕はすぐさま献帝に禅譲を迫ったのです。

 

最終的に献帝は断ることが不可能だと悟り、

曹丕に禅譲をさせられ、曹丕に皇帝の位を譲ることになってしまいます。

 

 

これはその時の曹節の逸話になりますね。

 

 

曹節は禅譲するように使者が来るたびに、

皇帝の証である玉璽を渡さないように何度も激しく罵って抵抗したといいます。

 

最終的にどうにもならないと判断した曹節は、

涙を流しながら玉璽を使者に対して投げつけました。

 

この様子を見ていた周りの者達は、顔をあげることすらできなかったといいます。

 

 

曹節は兄である曹丕よりも、

政略結婚とはいえ縁あって嫁いだ献帝を選んだという事ですね。

 

そんな曹節ですが、禅譲した後は山陽公に封じられた献帝に従っています。

あくまで献帝の正妻としての立場を貫いたのでした。

 

 

そして献帝が亡くなる234年まで共に過ごし、

献帝が亡くなってからも260年まで生きています。

 

最後まで献帝に付き従った曹節の葬儀は、後漢の制度に従って埋葬されたといいます。

曹丕 -漢を滅ぼし、魏を建国した初代皇帝-

曹憲が曹皇后だった説?

一般的に曹節が曹皇后だというのが一般的ですが、

曹節ではなく、曹憲が曹皇后であったという説があったりします。

 

 

これは西晋の司馬彪が著した「続漢書」に由来するものですけど、

 

王先謙の著である「後漢書集解」

盧弼ろひつの著した「三国志集解」でもそれらの事に触れられていますね。

 

ちなみに司馬彪は、司馬炎の従兄弟にあたる人物になります。

 

 

あんまり日本では知られていない本(後漢書集解・三国志集解)ですが、

かなり参考になる事が色々と書かれてある本になります。

 

 

何故日本で有名ではないかというと、

真っ先に挙げられる理由としては日本語訳がないからですね。

 

漢字が鬼のように敷き詰められています。

 

読んでみると分かりますが、簡単に結論だけ書くと、

「後漢書集解」を著した王先謙は曹憲を支持しており、

 

一報の「三国志集解」を著した盧弼は、

正史通りに曹節を支持している感じになっていますね。

 

 

まぁそれら二つの本でも指摘されている元となった「続漢書」には、

「献帝の曹皇后は曹操の娘である曹憲である。

伏皇后が死ぬと、曹憲が皇后となった。

 

禅譲によって漢が滅亡すると、曹憲を山陽公夫人に任じた」

といった文章が書かれてあるからです。

 

 

まぁそれでもその時代を生きた陳寿「三国志」にも記載が残るように、

曹節が曹皇后であったというのが私は自然だと思いますね。

曹憲のお墓が安徽省亳州で発見された?

1970年代に入って、曹憲の可能性のある墓が、

曹操の故郷である安徽省亳州で発見されたと言われました。

 

 

安徽省亳州のどこで発見されたかと言うと、

 

曹操の一族の墓が眠っている「曹操宗族墓群」で、

曹操の祖父である曹嵩、父である曹嵩なども墓もある場所でもあります。

 

 

曹憲の墓かもしれないとされているのは「馬園村二号墓」ですが、

「曹憲」という印が出土したことからそのように判断されています。

 

 

ただ献帝に嫁いだはずの曹憲の墓が、

安徽省の墓群で発見されたのかはかなりの謎なので、

 

あくまで個人的な見解ですが、

別に曹憲という男性がいたと考えるのが普通な気がしますね。