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黄巾の乱とは?
黄巾の乱と言えば、
三国志時代の扉を開けた反乱であり、
張角・張宝・張梁によって引き起こされた反乱だというのは、
知ってる人は多いだろうと思います。
あくまで鎮圧されてしまった事で黄巾の乱は、
「反乱軍」という烙印をおされてしまったわけですが、
もともと後漢王朝の腐敗による民衆を救うために立ち上がったのが「黄巾の乱」だったのです。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」というように、
勝った者だけが自らを正義として歴史に名を残すことができるのですからね。
そんな黄巾の乱ですが、ただの農民反乱・宗教反乱という立場に収まらず、
きちんとした計画が事前にされており、きちんと組織化された集団であったことを忘れてはいけません。
そして今回紹介する馬元義は、
黄巾の乱を「ただの賊徒」から「組織集団」に変えた人物であったかもしれません。
洛陽襲撃の際に内部呼応を考えたのは、馬元義(ばげんぎ)!?
馬元義は正史には全く登場していませんが、
「後漢書」にその名が登場している事で現在にその名が伝わっています。
黄巾の乱を起こした張角は、
五行思想の考えを大事にしており、
その考えの元に後漢王朝(火の王朝)を倒す時期として最適なのは、
184年の3月5日と考え、それに向けて洛陽襲撃計画を緻密に練っていました。
ちなみに漢王朝が「火の王朝(赤)」なので、
漢王朝を倒す黄巾賊は「土の王朝(黄)」というわけです。
この時に外部だけでの力任せではこの計画は失敗すると考え、
洛陽の内部からの呼応も大事だと考えた張角は、
馬元義という人物を何度も洛陽へと忍び込ませたといいます。
ただこれは私見が入ってしまうのですが、
「洛陽内部からの呼応を呼びかけることを提案したのは馬元義ではないか?」
と私は少なからず思っていますね。
その理由は、朝廷内部へと普通に働きかけれるということは、
それだけの人脈が既にあったということでしょう。
だからこそそれを利用しない手はないと思った馬元義は、
自分を洛陽へと忍び込ませることを提案したのではないかということですね。
そして張角は、「その考えはもっともだ!」といった感じで、
馬元義が洛陽へ何度も赴いたと思うわけです。
それを「後漢書」では、張角が考えて馬元義を派遣したみたいに記載した気がします。
ただあくまで黄巾賊は、後漢王朝からしたら「賊」であるので、
そのあたりのことが端的にしか記載が残っていないので想像するしかないのですが・・・
宦官の封諝・徐奉との繋がり
洛陽へと何度も足を運んだ馬元義ですが、
宦官であった封諝・徐奉に内部呼応を働きかけたのが馬元義であり、
馬元義は二人を味方につける事に成功しています。
それ以外にも数百人という味方を洛陽の宮廷内外で作ったと言われています。
封諝と言えば「中常侍」と言って、
張譲・趙忠と並ぶ宦官の一人だと言われたりしますが、
これはあくまで三国志演義の中での一人であり、「後漢書」に記載があるメンバーは実際違います。
中常侍は、別名「十常侍」なんて呼ばれたりもしますよね。
実際は12人いたので十常侍とは少し違うのですが、
三国志演義ではこのあたりを綺麗に合わせて10人で十常侍と呼んでいます。
ちなみに「後漢書」によれば、
以下の12人を中常侍(十常侍)と呼んでいます。
張譲・趙忠・夏惲・郭勝・段珪・孫璋・宋典・畢嵐・栗嵩・張恭・韓悝・高望
「三国志演義」で言えば、以下の10人になります。
張譲・趙忠・夏惲・郭勝・段珪・封諝・曹節・侯覧・蹇碩・程曠
漢王朝の腐敗により、この中常侍と呼ばれる宦官は、
皇帝以上の権限があったとまで言われており、
そのせいもあって賄賂が横行し、完全な政治腐敗を生み出していました。
そんな朝廷内部へと働きかけることができた馬元義は、
「もともと漢王朝に仕えていた人物だったのではないか?」という疑問がわいてきます。
そしてある程度功績を残した人物だったという可能性です。
そうでなければ朝廷内部へ深く入り込んで、
封諝や徐奉の呼応を呼び掛けられる可能性は低いと思うからです。
また封諝に関しては、
霊帝の母であった董太后とも繋がりがあったほどの人物でした。
ここに出てくる董太后と言えば、
劉協(後の献帝)の育ての母としての方が有名かもしれませんが・・・
それほどの人物であった封諝が、
どこの誰かもわからないような者の話に耳を貸すわけはないでしょうからね。
封諝も馬元義が加担しているこの漢王朝転覆計画は、
「十分に成功する可能性が秘めている」と思った上で、
反乱軍が見事に洛陽奪取を成し遂げた際は、
十分な出世と褒美を受け取れると考えたと思うのが自然な気がします。
黄巾賊を組織化したのは馬元義!?
馬元義が飛びぬけていたのは上記のような人脈だけでなく、
様々な点で飛びぬけている点が多いからですね。
その最たるものが、黄巾賊を36の「方」に区分けして、
それぞれ一つ一つの「方」に代表者を置いた点です。
そうすることで張角からの命令・指示を伝えやすく、
また組織化されることでただの寄せ集めの集団ではなくなるという利点もあります。
これにより黄巾賊は中国各地で広がりを見せ、
後漢王朝を畏怖しめるほどの規模になっていったのだと思います。
もちろん上記で書いたようなことを、馬元義が考え出したという記録は残っていません。
ただそう思うのは、上でも述べたように、
馬元義は記録こそ残されていないものの漢王朝に仕えていた人物で、
「功績を残した人物だったのではないか?」
と思えてしまう点が多いからです。
そのあたりのことが記載されなかったのは、
賊の一人として片づけられた為に、漢王朝時代の功績は歴史から抹消されたのかもしれません。
あくまで私自身の憶測に過ぎませんが・・・
ただ張角の腹心中の腹心と言われたのには、それなりに理由があったのだろうし、
馬元義の力無くして漢王朝を滅ぼすことは不可能だということを、
誰よりもよく知っていたのは張角自身だったのではないでしょうかね!?
だからこそ張角は馬元義に対して大変な信頼を置いたのだと思います。
そしてその期待に応えようと、馬元義は骨身を惜しんで行動に移していた気がします。
荊州・揚州での蜂起準備をしたのも馬元義である
漢王朝の腐敗に愛想をつかした馬元義は、
張角に加担することで、これまでの経験を活かして最大限の働きをします。
そして「太平道」という、
張角の宗教団体を組織化させただけでなく、
洛陽襲撃の際には外部だけでなく、
内部からの協力者が必要であると判断し、
自らの足で洛陽へと赴き、下準備を着々と整えていたのではないかと想像しています。
またそれだけではなく、
馬元義は各地で信者を増やすことにも力を入れており、
荊州・揚州でも蜂起してくれる信者を集めまわっていたようです。
実際に馬元義の働きにより、
荊州・揚州では数万人と呼べる信者を集める事に成功しています。
確実に漢王朝転覆計画は、
もう一歩のところまで迫っていたのは間違いないでしょう。
馬元義の最後
184年3月5日の決行日に備えて、着々と下準備を整えていた馬元義でしたが、
184年2月に予期せぬことが起こってしまいます。
それは唐周という者が裏切り、
張角や馬元義の計画を朝廷へと内部告発したことでした。
そうとは知らない馬元義は捕らえられて処刑されてしまう事となります。
漢王朝の腐敗した世の中から、
張角率いる太平道が幸せな未来を作ってくれると信じ、
その為に自分が持てるものすべてをかけて動き続けた馬元義でしたが、
その未来を見る事なくこの世を去ってしまったわけです。
そして計画が露呈し、
馬元義が処刑された事を知った張角は、
3月5日まで待つ事が不可能になり、そのまま2月に蜂起をしています。
しかし計画を前倒ししたことで、
緻密な計画がずさんな計画へと変貌し、最終的に失敗に終わってしまうでした。
もしも馬元義が処刑されず、計画が露呈していなかったならば、
黄巾の乱は、中国全土の州で一斉に大規模な反乱を起こし、
洛陽では封諝・徐奉が朝廷内部をかき乱し、
後漢王朝は滅んでいた可能性は十二分にあっただろうと私は思いますね。
ただ残念ながら、歴史はそうさせてくれなかったということです。