孟獲の妻といえば今回紹介する祝融夫人ですが、
祝融夫人はいわずもがな三国志演義にだけ登場する女性であり、
三国志正史には登場しない人物です。
祝融夫人(しゅくゆうふじん)
横山光輝三国志(48巻135P)より画像引用
祝融夫人は三国志演義にだけ登場する人物ですが、
これは祝融夫人だけにとどまりません。
孟獲の兄である孟節や孟獲の弟である孟優など、
三国志演義での諸葛亮の南蛮討伐に登場するほぼすべての人物が、
三国志演義にしか登場しないような人達ばかりです。
なので孟獲と組んで諸葛亮に対抗した、
朶思大王・木鹿大王・兀突骨なども架空の人物だということになりますね。
祝融夫人は上で述べたように孟獲の妻として登場し、
火を司った祝融の子孫として描かれています。
また諸葛亮の南蛮討伐に登場する帯来洞主は、
祝融夫人の弟であり、祝融夫人と同じく火神祝融の子孫になりますね。
後は三国志演義にも登場しない人物に花鬘という女性がいますが、
これは孟獲・祝融夫人の娘としての設定になってます。
花鬘が実際に登場するのは、
関羽の三男である関索を主人公とした京劇の演目「龍鳳巾」です。
つまり花鬘は「龍鳳巾」のヒロインとして登場しているわけです。
一つだけ補足しておきますが、
関索もまた正史に登場しない架空の人物ですからね。
とりあえず諸葛亮の南蛮討伐は、
架空人物のオンパレードで成り立っていると言えます。
火神「祝融」を語る上で欠かせない「三皇五帝」
紀元前5世紀頃に生きた墨子の「非攻」によると、
天帝の命令を受けた祝融が、殷の湯王が夏の桀王を打ち滅ぼした際に、
天から火を降らせて城を攻撃したという伝説も残っています。
また「祝融」を語る際に欠かせないのが、「三皇五帝」の存在です。
ここで大事なのが三皇であり、
これは一般的には天皇・地皇・人皇だと言われたりしていますが、
ただ文献によって呼び名が違ったりと、
確実にこの三名であるという議論が決まっているわけではありません。
つまり諸説あるわけです。
たた諸説ある中でも三人のうちの二人が伏羲・神農というのは、
大体意見が一致しているわけですが、
もう一人の枠には女媧・祝融・燧人など文献によって様々な感じになっています。
火神「祝融」
三皇
- 天皇
- 地皇
- 人皇
もしくは以下のような感じです。
- 伏羲
- 神農
- 女媧≒祝融≒燧人
五帝
- 黄帝(こうてい)
- 顓頊(せんぎょく)
- 帝嚳(ていこく)
- 尭(ぎょう)
- 舜(しゅん)
つまり三皇五帝は伝説上の人物なわけなので、
存在した証拠が見つかっておらず、基本的に神々といった立ち位置になります。
そしてこの伝説上の人物である舜から禅譲を受けたのが、
夏王朝を起こした禹になります。
夏王朝ももともと伝説上の王朝と言われていましたが、
夏王朝があったと思われる証拠が見つかったことから、
現在では伝説上の王朝ではなくなっていますね。
少し祝融と話がずれてしまったので戻すと、
後漢時代に生きた班固が 白虎観における経典に関する論争をまとめたものですが、
その「白虎通義」に出てくるのが祝融なわけです。
また祝融は、最古の地理書だといわれている「山海経」にも登場していますね。
そんな祝融ですが、神農とともに南方を支配し、
人頭獣身で二頭の龍に乗っていた人物だと言い伝えらたりと・・・
そのあたりから祝融は火に関する総責任者という立ち位置を確立したようです。
ただ勘違いしてはいけないのが、
祝融夫人を炎帝の子孫だという風に言っている人も多いですが、
炎帝は「医療と農業を司る神である神農」だといわれているので、
少し意味合いが変わってくるわけです。
あくまで祝融夫人は、祝融(火神)からきているということを軽く覚えておきましょう。
三国志演義での祝融夫人の活躍
横山光輝三国志(48巻136P)より画像引用
祝融夫人は夫である孟獲が諸葛亮との戦いで、
五度に渡る敗北の際に登場した女性になります。
祝融夫人は男勝りな性格で、
夫である孟獲にもズバズバ意見を言うような感じでした。
そして諸葛亮との六度目の戦いの際に登場し、
まずは張嶷との一騎打ちで、得意の飛刀(投げナイフ)を使って捕らえ、
張嶷を助けようとした馬忠もまた一騎打ちで敗れています。
横山光輝三国志(48巻141・143P)より画像引用
張嶷・馬忠を捕虜にした祝融夫人でしたが、
趙雲・魏延と一騎打ちをするような場面もありますが、
最終的には罠にはまる形で、
祝融夫人は捕らえられています。
蜀軍に捕らわれた祝融夫人でしたが、
張嶷・馬忠と祝融夫人の捕虜交換した形で孟獲の元へと戻ります。
人質交換が終わり、これからどうやって蜀軍と対峙しようか考えていた際に、
孟獲の苦戦を聞いた木鹿大王が孟獲の援軍に到着!
横山光輝三国志(48巻175P)より画像引用
木鹿大王は猛獣を使った作戦で蜀軍の度肝を抜くも、
諸葛亮が発明して持ってこさせていた「木で作った火を吐く猛獣像」をここで繰り出します。
これにびっくりした猛獣は四散してしまい、
木鹿大王は蜀軍によって討ち取られてしまったわけです。
その後、兀突骨に助けを求めた孟獲でしたが、
諸葛亮の火計による計略に見事にはまり全滅してしまいます。
これにより孟獲は諸葛亮に対して心から降伏し、
祝融夫人も夫である孟獲同様に蜀への忠誠を誓ったのでした。