孟獲の妻であった祝融には、帯来たいらいという弟がいました。

 

もちろんですが、帯来もまた祝融同様に三国志演義に登場する人物であり、

三国志正史には登場しない人物になります。

帯来洞主の登場

三国志演義では、帯来という名で呼ばれることは少なく、

一般的に帯来洞主と呼ばれています。

 

「洞主」という呼び名がついているのは、帯来が洞窟に住む者達の長だったからですね。

 

 

今回出てきたのは禿竜洞ですが、南蛮には数多くの洞窟を治める者達が存在しています。

そして帯来もその一人となります。

 

 

また帯来洞主が三国志演義に登場するのは、

孟獲が諸葛亮との戦いに敗れて五度捕らえられて解放された後になります。

 

 

帯来洞主の登場前のことを少し説明すると、

 

孟獲は何とか勝利を収める為に、

南蛮一とも言われた朶思大王だしだいおうに知恵を借りて諸葛亮に抵抗するのですが、

 

朶思大王は蜀軍に敗れて討死してしまいます。

 

 

朶思大王が討たれてしまい、孟獲が今後について思案を重ねていた際に、

孟獲の妻であった祝融夫人が登場し、張嶷・馬忠を捕らえるという成果を・・・

 

しかし最終的に諸葛亮の罠にかかって、孟獲・祝融夫人は捕らえられ、

孟獲は五度目の解放をされたわけです。

 

 

こういう流れの中で祝融の弟である帯来洞主が登場するといった感じです。

【三国志演義】火神の子孫、祝融夫人

木鹿大王から援軍の取り付け

横山光輝三国志(48巻173P)より画像引用

 

諸葛亮から既に五度解放された孟獲ではありましたが、

諸葛亮率いる蜀軍と今後どう戦っていいのか思案にくれていました。

 

これまでの戦いで多くの配下や兵士をすでに失っており、

それ以上に諸葛亮の奇策に対応すべき手段が思い浮かばなかったからですね。

 

 

そんな折りに登場したのが、祝融の弟である帯来洞主でした。

 

帯来洞主は悩む孟獲に対して、

木鹿ぼくろく大王に助けを求めるのがよいのではないか?」と助言したのです。

 

木鹿大王は猛獣を自分の兵士の如くに操っていた人物で、

この猛獣軍を指揮する木鹿大王を味方につければ勝利を掴むことも可能だと考えたわけです。

 

 

孟獲は帯来洞主の意見を取り入れ、

 

帯来洞主自らが木鹿大王のもとへの使者となり、

木鹿大王を説得することに成功しています。

木鹿大王VS諸葛亮

木鹿大王は孟獲を援助すべく孟獲と合流して蜀軍と対峙します。

 

 

そして戦闘が始まると、

猛獣が襲い掛かってきたことで蜀軍は混乱を起こし、

 

趙雲・魏延が率いていた部隊は大きな被害を出してしまいます。

横山光輝三国志(48巻186P)より画像引用

 

勝利に浮かれた木鹿大王は、孟獲らと宴会を開く始末。

 

そして勝利に浮かれ、蜀軍をなめてかかった木鹿大王に対して、

諸葛亮は「からくり木獣」というものを繰り出しました。

 

 

これは木で作られたからくりの獣像であり、

中には火薬が仕込まれており、口から火を吐けるというものでした。

 

木鹿大王率いる猛獣軍は、火を吐くからくり木獣に驚いて四散してしまいます。

そしてその中で木鹿大王は討死してしまうのです。

横山光輝三国志(48巻203P)より画像引用

 

ちなみにですが横山光輝三国志では、

関索に最後は討たれた描写で描かれていますが、

 

実際に三国志演義で関索に討ち取られたというわけではありません。

 

 

あくまで戦いの中での戦死ですね。

 

これにより孟獲・祝融夫人は再度諸葛亮にとらわれてしまうのですが、

六度目の解放をされたという流れになります。

兀突骨から援軍を取り付け

横山光輝三国志(49巻9P)より画像引用

 

追い詰められていったあ孟獲に対して、

帯来洞主は次に兀突骨ごつとつこつに援軍を求めることを提案します。

 

これを聞き入れた孟獲は、帯来洞主を使者として派遣し、

この際も見事に兀突骨を味方に引き入れることに成功!!

 

 

兀突骨は烏戈うか国の王であり、身長は十二尺ほどあったといわれています。

 

当時の一尺は約23cmほどだといわれているので、

23×12=276mほどあったということになりますね。

 

実際には後漢時代の尺度と三国時代の尺度は約1cmほど違ったりはするのですが、

まぁここでは23cm(後漢末期)の方を採用しています。

 

 

それだけでなく、兀突骨の体は鱗に覆われており、

動物や蛇などを主食としていたようです。

 

まぁあくまでこれは三国志演義での設定ですから、

本当に記述通りの人物がいたとしたら怖すぎますから・・・

兀突骨VS諸葛亮

兀突骨は「藤甲軍」という部隊を率いており、

兵士達は藤つる(植物)に油を染み込ませてそれを体に合わせて編み込み、

 

それを乾かして強固な鎧を作っていました。

 

 

この鎧は剣をはじき、矢さえもはじいてしまうという代物で、

蜀軍は藤甲軍に歯が立たず、蹴散らされてしまいます。

 

またこの鎧は油を染み込ませていたことから、

川を軽々と浮いた状態で渡ることもできるといったものでした。

横山光輝三国志(49巻32P)より画像引用

 

これに対して諸葛亮は藤甲軍が火に弱いことを突き詰め、

魏延に偽の退却を15回ほど行わせて、盤蛇谷にまで誘い込みます。

 

 

一方の勝ちに酔っていた兀突骨軍は、

 

蜀軍に何度も勝利するうちに「我が藤甲軍は無敵だ!」と思い込み、

疑いもなく盤蛇谷へと誘い出されていくわけですね。

 

この盤蛇谷には諸葛亮が仕掛けた地雷が仕掛けられており、

兀突骨をはじめ、藤甲軍は一人残らず全滅してしまったのでした。

 

 

その後に孟獲は捕らえられてしまうのですが、

 

いつもの如く孟獲を解放しようとした際に孟獲は諸葛亮の懐の大きさに感激し、

孟獲はじめ、祝融夫人・帯来洞主ら生き残った者達は諸葛亮への臣従を誓ったのでした。

「七縦七擒」の名前の由来となった孟獲