247年に羌族の四人の首領である餓何・焼戈・伐同・蛾遮塞は、
魏に対して大規模な反乱を起こします。
この時に四人の首領に力を貸したのが、治無戴という人物でした。
ちなみに羌族と言って思い浮かぶのは、
公孫瓚滅亡のきっかけを作った袁紹と公孫瓚の戦いで、
羌族の兵法を熟知していた袁紹軍の麹義という人物が有名ではありますね。
治無戴(ちむたい)
治無戴は涼州の豪族で、涼州では名を轟かせていた人物で、
247年に餓何・焼戈・伐同・蛾遮塞の蜂起に合わせて力を貸すことを決意します。
この蜂起を利用して北伐を起こしたのが蜀の姜維でした。
こういう経緯から、
餓何・焼戈・伐同・蛾遮塞の反乱は大規模なものとなっていくわけです。
この鎮圧に向かったのが夏侯覇でしたが、
北伐を開始した姜維が夏侯覇の軍とぶつかりそうになったこともあり、
郭淮が餓何・焼戈・伐同・蛾遮塞・治無戴らとあたることとなりました。
郭淮の作戦
郭淮は羌族の反乱鎮圧に向かうわけですが、
まず立地的に餓何・焼戈とぶつかることになるのですが、
戦いを前に羌族と蜀軍に対して、
どういう対応をしていくべきか作戦会議を開いたそうです。
多くの者達は、まず夏侯覇が姜維を抑えている間に、
羌族の反乱を鎮圧を急ぐというものでした。
その後で夏侯覇と協力して姜維にあたれば、
蜀軍は撤退せざるをえなくなるだろうというものだったようです。
これに対して郭淮は、
まず夏侯覇と協力して姜維を撃退することを最優先にすべきだと提案します。
理由は餓何・焼戈・伐同・蛾遮塞・治無戴ら羌族連合軍の心の支えとなっているのは、
まぎれもなく蜀の姜維の軍勢であり、
心の拠り所となっている姜維の軍勢を撃退できれば、
連合軍の士気は戦わずして大きく低下するというものでした。
そうなれば反乱を鎮圧することはわけもないだろうという流れだったわけですね。
この作戦会議で、最終的に郭淮の意見が採用されたのでした。
餓何・焼戈の死による反乱失敗
郭淮の作戦により、夏侯覇を援護した郭淮でしたが、
姜維は夏侯覇・郭淮の軍によって撤退を余儀なくされてしまいます。
その報告にショックを受けたのが、
餓何・焼戈・伐同・蛾遮塞・治無戴ら羌族連合軍でした。
連合軍の士気は大幅に低下し、戦いどころではなくなっていったのです。
それに対して前線を任されていた餓何・焼戈らは、
懸命に兵士を鼓舞し続けたわけですが、士気が戻ることはなかったわけで・・・
最終的に餓何と焼戈は、一発逆転を狙って総大将であった郭淮に一騎打ちを挑むのですが、
見事に二人は討たれてしまうのでした。
餓何・焼戈が討たれたことで、
残された伐同・蛾遮塞・治無戴らは退却することを決断します。
しかしここで伐同の消息は消えてしまい、
魏軍によって討ち取られてしまったと言われています。
ちなみに残された治無戴と蛾遮塞はなんとか撤退に成功!!
実際は郭淮に残された一万人の兵士とともに降参したという話もありますが、
ここではなんとか逃げおおせたという事で話をまとめます。
治無戴・蛾遮塞の再起戦
なんとか撤退することができた治無戴と蛾遮塞は、
軍勢を集め直して、翌年の248年に再び魏に対して反乱を起こします。
治無戴と蛾遮塞は河関・白土の古城を拠点にして魏に対抗するわけですが、
この時に治無戴と蛾遮塞の迎撃を任されたのは、またもや郭淮でした。
郭淮は川の上流から攻め込むように見せかけて、下流から治無戴・蛾遮塞らに奇襲をしかけ、
郭淮の罠にかかった二人は大敗してしまいます。
治無戴は武威の城を包囲して優勢に進めていましたが、
郭淮によって武威の包囲を解かざるを得なくなり、家族のいる西海に撤退しようとしますが・・・
この時に治無戴の家族が西海にいることを知った郭淮が、
治無戴の家族を捕らえる為に西海へと兵を進めていたのでした。
郭淮と治無戴は途中で遭遇することになり、
そこで戦いが起こるのですが、この戦いも郭淮の勝利で幕を下ろしました。
行く当てのなくなった治無戴・蛾遮塞は、
姜維を頼って蜀へと落ち延びていくことを決意したわけですね。
蜀へ落ち延びた治無戴・蛾遮塞のその後
姜維を頼って蜀へと落ち延びた治無戴・蛾遮塞でしたが、
その後治無戴と蛾遮塞が蜀でとういう活躍をしたのかななどは分かっていません。
つまり治無戴と蛾遮塞は二度の反乱の末に、
歴史の中から消えていったわけですね。
ただ「姜維伝」に残されている話では、
治無戴・蛾遮塞らとともに蜀へ落ち延びた者達は、
姜維のはからいもあって、成都の近くにあった繁県に安住したと言われています。