黄巾の乱に乗じて後漢皇帝に抵抗した黒山賊。
黒山賊は袁紹や曹操とも争った賊であり、
全盛期の頃は百万人以上の賊徒がいたといいます。
この黒山賊は河内郡にある黒山を拠点に暴れまわった賊であり、
黒山賊の初代大首領の張牛角、二代目大首領であった張燕がもっとも有名だと思います。
今回はそんな黒山賊の張晟(張白騎)について見ていきたいと思います。
目次
張晟(張白騎)
もともとの名前は張晟ですが、ここでは張白騎で名前は固定したいと思います。
もう少し張晟と張白騎の名前を突き詰めると、
これら二人は別々の人物だと思われていたこともありましたが、
近年では張晟と張白騎は同一人物だとされていますね。
その理由は、三国志「張既伝」には馬騰に張晟を討たせた記載が残っていますが、
「龐徳伝」には張白騎というような記載が見られるので、
張晟と張白騎が別の人物だとするとおかしなことになってしまい、
二人が同一人物だという方が自然という事で落ち着いたといったような感じですね。
河内郡の黒山には、かなり多くの頭領が存在しており、
多い者は三万人程度を率いており、少ない者でも六千人程度の賊徒を率いていました。
張白騎はそんな頭目の一人で、
常に白馬に乗っていたことから仲間から張晟という本名ではなく、
張白騎という名で呼ばれていたようです。
実際は張白騎だけでなく、
初代大首領であった張牛角をはじめ多くの人が仮名だと言われていますね。
こういった多くの頭領は、張牛角や張燕に多くの者達は従ったようですが、
張白騎はそれらに基本的には協調せずに暴れていました。
まぁ張燕が組織した黒山賊には一応属している形にはなっていたようですが・・・
そんな張白騎ですが、
洛陽と長安の中間あたりにある弘農付近を根城にして、
大いに暴れまわっていたようです。
張白騎登場前の曹操・袁紹遺児の戦いの背景
袁紹が曹操に官渡の戦いで敗れ、その後病死すると、
袁紹の遺児である袁譚と袁尚は後継者をめぐって争うことになります。
ただ曹操の猛攻によって苦戦を強いられると、
二人は一時的に手を結んで曹操に対抗したりもしてますね。
まぁ手を組んだとは言いましたけど、
実際袁尚が曹操に攻められていることを知った袁譚が袁尚に援軍を送るも、
後継者争いをしている兄の袁譚から援軍をもらう事をいさぎよしとしなかったのか普通に断って、
それに怒った袁譚が袁尚派であった逢紀を殺して、二人の関係が非常に悪化した時というのが正確なところです。
それ以後は二人は修復不可能なまでに関係が悪化して、
曹操に別個駆逐されていくこととなります。
張白騎が登場するのはその後の話です。
郭援・高幹・呼廚泉VS龐徳・馬超
この戦いに張白騎は参戦していませんが、
曹操と袁家との戦いの延長線上で戦うことになるので大事な戦いになります。
袁尚の依頼を受ける形で曹操の背後を襲った高幹らでしたが、
本来はこれに馬騰も応じるような形でした。
しかし鍾繇や張既の説得もあり、馬騰は曹操に味方することを決意!
その際に馬騰は龐徳と馬超に一万の兵士を預け、
関中(長安付近)を統括していた鍾繇の元に派遣します。
鍾繇は龐徳・馬超を郭援らの迎撃に向かわせ、
郭援が龐徳によって討ち取られ、
高幹・呼廚泉らも敗北してしまったのでした。
その後に高幹と呼廚泉は曹操に降伏しています。
高幹の反乱に呼応した張白騎・張琰・衛固・范先
袁譚が討ち取られ、袁尚が北方に追いやられ、袁家が滅亡寸前まで追い込まれた際に、
何を思ったのか、曹操に降伏していた高幹が曹操に刃を向けます。
高幹の叔父は袁紹なので、
袁家が滅亡していく様が許せなかったのかもしれませんね。
ただ実際はどういった考えでの反乱だったのかはわかりません。
何故なら曹操に追い込まれていた袁尚が高幹と結ぼうと使者を寄こしたようですが、
高幹はこの誘いを断っているからです。
もしかすると、頼りない袁紹遺児達にはもう任せておけない・・・
ここは自分の手によって袁紹遺児に代わって袁家を再興しようと考えたのかもしれません。
また高幹が反乱を起こしたのは、
曹操が鳥丸賊討伐に乗り出した隙を狙ったタイミングで、
ここで高幹に味方したのが黒山賊の張白騎だったのでした。
実際は張白騎以外にも、
張琰・衛固・范先などが曹操を裏切って高幹の反乱に呼応しています。
曹操軍(杜畿・賈逵・馬騰・鍾繇・夏侯惇など)VS高幹・張白騎・張琰・衛固・范先
反乱を起こした高幹・張白騎・張琰・衛固でしたが、
高幹・張琰・衛固・范先らは
杜畿が守る城を攻撃したけれども落とすことができませんでした。
実際は杜畿に張琰・衛固・范先らが翻弄され、
その間に杜畿が防備を整えて守り通したというのが正しいですけどね。
またこの話の裏側には、張琰が反乱を起こした際に、
そのことを知らなかった賈逵が偶然にも張琰の元を訪れようとしていたのでした。
近くまで賈逵が来た時に、張琰が反乱を起こしたことを知り、
そのまま逃げ帰ったのでは捕らえられてしまう可能性があったことから、
賈逵は城の修理を手伝ったりと、
張琰に味方するふりをしながら反乱についての詳細を聞いたりしていたわけで・・・
そういう経緯もあり、なんとか高幹らの反乱を食い止めることに成功!
最終的に鍾繇・夏侯惇が大軍を率いて援軍にかけつけたことが決め手となり、
高幹らは敗北!!
この戦いで捕らえられた張琰・衛固・范先らは処刑されたのですが、
高幹は逃亡することになんとか成功しています。
肝心の張白騎ですが、この戦いは広範囲で行われていたこともあり、
実際に張白騎の討伐に向かったのが、またもや曹操に味方した馬騰・龐徳の涼州の軍団でした。
龐徳の戦いはすさまじく、戦うたびに張白騎に勝利したそうで、
最終的に張白騎は馬騰軍によって討ち取られたと言われていますが、
なんとか逃げおおせたといったような話もあります。
どちらにしても、張白騎の記述はここで終わっているわけで、
普通に考えると討ち取られたのが自然だと思います。
この戦いの首謀者であった高幹は、壷関に立て籠もって抵抗を続け、
その際に匈奴の呼廚泉に助けを求めますが、呼廚泉にスルーされてしまったのでした。
曹操に敗れた高幹は、劉表を頼って南方へ落ち延びようとしますが、
荊州まで後一歩の所で捕まってしまい、処刑されてしまいます。
高幹の死をもって、この反乱は見事に幕を下ろしたのでした。