三国時代は匈奴・鳥丸・鮮卑・氐・
羌・山越・南蛮と言ったように、
異民族と切っても切り離せない関係があります。
何かあるごとに異民族との抗争が常につきまとい、
その時々の利害の一致から協力することさえありました。
特に呉は魏へ積極的に攻め込めれなかった事情として、
最後の最後まで異民族の反乱に手を焼いていたことなどは有名な話です。
今回は匈奴の王にして、
曹操とも関係が深かった於夫羅について見ていきます。
全く関係ない話ではありますが、
個人的な話として三国志Ⅵの於夫羅のイラストが、
ターバンを巻いたような感じですごく気に入ったのはいまだに覚えていますね。
初期プレステのソフトですので、かなり古いものではあるのですが・・・
於夫羅(おふら)
於夫羅は「三国志演義」には登場せず、
「正史」の方にだけ登場する人物になります。
家系図を見てもらえれば分かりやすいですが、
於夫羅は羌渠の子であり、弟に呼廚泉がいます。
また於夫羅の子である劉豹は、
蔡邕の娘である崔琰(蔡文姫)を拉致して妻とした話なんてのもあります。
また於夫羅・呼廚泉・劉豹あたりは、
匈奴の武将として、KOEI(光栄)のゲームにもよく登場していた武将なので、
案外知ってる人は多いかもしれませんね。
ただ呼廚泉・劉豹に比べると、少し知名度が落ちる気はします。
そんな於夫羅ですが、父であった羌渠が匈奴の単于になると、
於夫羅を右賢王に任じています。
右賢王と言ってもしっくりこないかもしれませんが、
単于が匈奴の中で一番偉いのに対し、右賢王・左賢王は単于に次ぐ二番目の地位になります。
まぁ簡単に言ってしまえば、匈奴のNo2であり、
No2と言えば、次期単于の最大候補とも言えますけどね。
そんな中で184年に「黄巾の乱」が起こります。
「黄巾の乱」に漢王朝は苦戦を強いられるのですが、
この時に羌渠は後漢王朝に味方し、
於夫羅を後漢への援軍として派遣したのでした。
父親(羌渠)の殺害事件
羌渠は後漢王朝に対してもそうですが、
何かあるたびに匈奴の地で徴兵を繰り返していたことで、
それが配下の者達からの反感を買うことになり、羌渠は殺害されてしまいます。
「この時に背いた者達は十万人を超えるほどだった」と言われており、
それだけ羌渠に対しての不満がたまっていた証拠といえるでしょうね。
羌渠が殺害されたことで、於夫羅が跡を継ぐことになるのですが、
羌渠殺害に加担した者達は従わず、
須卜骨都侯を単于に祭り上げたのでした。
於夫羅は父の跡を継いで単于を名乗ってはいたものの、
周りの協力がない状態ではどうしようもなく、縁があった漢王朝に助けを求めたのでした。
ただ於夫羅は完全に運からも見放されていたのです。
何故なら霊帝が崩御したばかりで、
漢王朝は混乱の最中にあったからです。
その後は大将軍の何進と宦官の争いで
何進と宦官が共倒れになってしまいます。
また事態はそれに止まらず、董卓の台頭を許してしまいます。
それに伴って少帝(劉弁)を廃して献帝(劉協)を擁立するなど、
もう国内以外に目を向けることができない状況になっていったわけです。
賊徒への道を歩んだ於夫羅
数千騎を率いて助けを求めてきた於夫羅でしたが、
願いが聞き入れられないと知ると、
并州西河郡で暴れていた白波賊と手を組んで、
憂さ晴らしをするかのように暴れまわったのでした。
三国時代は本当に色々な賊が登場しているのですが、
白波賊もその一つで、
黄巾の乱から派生してできあがったような賊徒になりますね。
鹿児島の芋焼酎で「白波」って有名な焼酎がありますが、
この焼酎「白波」の由来は、この白波賊からきてるのは余談です。
そして於夫羅の軍勢や白波賊が暴れている様をよく思わなかった漢王朝は、
董卓に討伐を命じていますね。
ただその時期が丁度大将軍の何進が殺害された事で、
董卓による討伐は中止となってしまったのです。
その後の董卓は宮中を掌握して、独裁政治をしくことになります。
反董卓連合に参加
董卓が独裁政治に反発する形で、
袁紹を盟主とした反董卓連合が起こります。
この反董卓連合には多くの群雄が参加しており、
於夫羅も袁紹軍の一員として参加しています。
ちなみに於夫羅同様に曹操も、
袁紹軍に属した形で反董卓連合に参加しています。
しかし反董卓連合が仲間割れにより自然消滅してしまうと、
於夫羅は袁紹を裏切って反乱を企てました。
これに対して袁紹は、野戦を得意としていた麹義に討伐を命じています。
そして於夫羅は麹義に敗北し、
黎陽へと追いやられてしまうことになったわけですね。
しかしここで終わらなかったのが於夫羅で、
度遼将軍であった耿祉の軍勢を奪ったことで、
勢力を盛り返すことに成功しています。
まぁここで軽く覚えておきたいのは度遼将軍ですね。
度遼将軍は、
武帝(前漢)によって作られた将軍職で、
異民族討伐の際に任じられることが多い将軍でもありました。
ここから推測できることは、
耿祉は期待されていた人物であったこと、
そして北方の異民族討伐の為に精鋭部隊を準備していただろうという可能性・・・
だからこそ精鋭部隊を乗っ取ることができた於夫羅は、
「勢力を盛り返すまでになれたのだろう」という推測が可能になったのでした。
曹操に降伏した於夫羅
191年に黒山賊の于毒・眭固・白繞らが、
十万人以上を率いて東郡太守であった王肱を打ち破ります。
しかしその後は曹操の猛攻に耐え切れず、
あっさりと東郡を奪い返されてしまいます。
基本的に黒山賊と言えば、張燕の部下だと思われがちですが、
実際は黒山賊に含まれるものの、
張燕に従っていないような集団も多かったのが実情でした。
「互いに争う事はしないけれど、
何かする際は自分たちの判断でしか動かない」
というと少しは分かりやすいかもしれません。
張白騎とかもそうですが、于毒らもそれに近いような感じでした。
翌年の192年に于毒が再び、
曹操の隙をつく形で曹操の領地へと攻め込みますが、
曹操に普通に敗れています。
この戦いには於夫羅も于毒側として参戦していましたが、
完膚なきまでに叩かれてしまったわけですね。
于毒と於夫羅は劣勢に立たされるのですが、
於夫羅は曹操と対立していた袁術を支援することで一発逆転を狙ったのでした。
しかし肝心の袁術が敗れてしまい、計画は挫折します。
また於夫羅も長い戦いの中で軍勢が少なくなってしまっており、
身動きが取れなくなっていたことで、泣く泣く匈奴の地に戻ろうと考えました。
しかし匈奴の者達が、
「於夫羅を単于と認めていなかった」こともあり、
於夫羅は単于の身でありながら、
最後まで匈奴の地に戻ることができなかったようです。
そして前にも後ろにも身動きが取れなくなった於夫羅は、
最終的に曹操に帰順していますが、それから間もなくの195年にこの世を去っています。
於夫羅死後は、弟の呼廚泉が単于を引き継いでいます。
ちなみに兄と違って弟の呼廚泉は、
「すんなりと単于を引き継げた」という事なのでしょうね。
晋を滅ぼした於夫羅の孫(劉淵)
於夫羅・呼廚泉・劉豹がKOEIの影響もあり、
かろうじて知ってる人もいるかもという話を最初にしましたが、
於夫羅の孫(劉豹の子)にあたる劉淵が実際一番の有名人だったりします。
ここでは余談的な話として簡単に説明しますが、
「魏」を滅ぼして司馬炎が建てた「晋」は、
280年に「呉」を倒して中華統一を果たすことに成功しています。
しかし晋の天下は長くは続かなかったのです。
そして於夫羅の孫にあたる劉淵が、
「八王の乱」で衰弱していた晋から独立を果たしています。
そして自身を劉備の末裔と称して、
漢王朝(蜀漢)の継続王朝「漢」を興したのでした。
そして世代こそ変わってしまうものの、
劉淵の四男である劉聡が洛陽・長安と陥落させ、
317年に華北の大部分を支配下に置いたことで、
晋は実質滅んだ状態になります。
つまり西晋の滅亡ですね。
それ以後は、司馬睿(司馬懿の曾孫)が南方に逃れたことで、
「東晋」として生き延びていくこととなります。
実際は劉淵と劉備・劉禅は全く血のつながりはありませんが、
劉備・諸葛亮などの無念を、
表向きに劉淵が引き継いでくれた形になりますね。
そしてそれらの話は、
「三国志後伝(続三国志)」として、
「三国志演義」の続編といった感じで物語が作られています。
「三国志後伝」について簡単に説明すると、
「劉淵は劉備の孫という設定で、
諸葛亮・関羽・張飛・趙雲・黄忠などの子孫が、
匈奴の地に集結して晋を滅ぼす」というものになります。
「三国志演義」が好きな人は、
最後は蜀(漢)が晋を倒すという理想とも言える話になるので、
もし興味がある方がいれば、
「三国志後伝」を一度読んでみると面白いかもしれませんね。
多くの人達が知っている「三国志演義」は長編小説ですが、
「三国志後伝」は、三国志演義よりももっと長い話になりますので、
一気に読むのは大変かもしれませんが、
それだけ楽しさが詰まっていると思えば嬉しい事でもあったりすると思います。