三国時代は戦いに次ぐ戦いで人口が激減した時代であり、

各地に割拠する群雄は、異民族を取り入れて兵力を確保するみたいなことがよくありました。

 

蜀が北伐の際に氐族を味方にしたりとしますが、

それは北方の魏でも同じことでした。

 

 

今回は匈奴の王(単于)でありながら、

中華(魏)の中に身を置いた呼廚泉についてのお話です。

呼廚泉(こちゅうせん)

曹操の軍門に降った兄の於夫羅が亡くなると、

呼廚泉が跡を継いで単于となります。

 

呼廚泉は曹操と袁紹遺児であった袁尚との戦いの際には、

曹操を裏切って袁尚側に味方しています。

 

そして郭援・高幹と共に曹操の背後を襲いますが、

馬超・龐徳によって戦いに敗れ、蹴散らされてしまったのでした。

 

その際に郭援は龐徳によって討ち取られますが、

残された呼廚泉と高幹は最終的に曹操に降っています。

 

 

それから少しして袁紹遺児が没落していくと、

高幹が再度反乱を起こして滅亡の道を歩みますが、

 

追い詰められた高幹が助けを求めた呼廚泉でしたが、

前回共に反乱を起こした縁をスルーすることで高幹の誘いを断っています。

 

 

高幹はこの反乱に失敗し、曹操に処刑されたのでした。

 

おそらく助けを求められた時の呼廚泉は、単于として南匈奴へ帰っていた頃でしょう。

 

さすがに匈奴の単于として、

勢いのある曹操に逆らう事は身を亡ぼすと思ったのかもしれませんね。

袁一族として最後の意地を見せつけた高幹

呼廚泉の入朝

216年7月になると、

呼廚泉は曹操から声がかかって入朝しています。

 

そして人質という意味合いも含めて、

呼廚泉は曹操の軍事的拠点であった鄴(元袁紹・袁尚の本拠)に滞在させられ、

 

呼廚泉の代わりに匈奴の地を収める為に、

呼廚泉の叔父にあたる(羌渠の弟にあたる)去卑が代わりに統治することになったのでした。

 

この時の去卑は右賢王であり、匈奴のNO2の立ち位置でした。

 

 

ちなみに「後漢書」「魏書」には、

去卑は左賢王であったような記載が見られますが、

 

この時の左賢王は劉豹であることから、高い確率で記載ミスだと思われます。

 

 

そして曹操が亡くなり、

曹丕が跡を継いで「魏」を建国すると、

 

匈奴の単于として璽綬を授けられ、

王だけが用いることができる青蓋車・乗輿・宝剣・玉訣などを頂いたと記録に残っています。

 

それから長らく呼廚泉の名は消えることとなります。

司馬炎の即位式

呼廚泉の名前が消えてから、

 

45年の月日が経った265年に、

呼廚泉の名が再び登場することとなります。

 

 

魏を滅ぼした司馬炎が「晋」を建国した際に、

 

呼廚泉が匈奴の単于として、

司馬炎の即位式に参列したのだそうです。

 

 

 

195年に兄であった於夫羅が亡くなり、

まぁ控えめではありますが、

 

呼廚泉が20歳で単于を引き継いだとして、

90歳になってる歳ですから、明らかに長寿だったことがうかがえます。

その後の呼廚泉

その後の呼廚泉に関する記録はほとんど残っていないのが実情です。

 

去卑の弟であると言われている劉猛が、

晋に反乱を起こして鎮圧されたり、

 

呼廚泉の治めていた南匈奴が、

長城を犯したりしたなどの記載が点々と残っている程度です。

 

 

少しだけ劉猛について書いておきますと、

一般的には「去卑の弟である」と言われていますが、

 

「羌渠の弟」であると記載が残っている文献「北史」もあります。

 

なのできちんとした出所が分かっていない人物だとも言えます。

 

 

呼廚泉が治めていた匈奴での記録は上記のようなところで、

最後に呼廚泉が登場するのは277年です。

 

この時は呼廚泉が晋に再び来朝したというふうに記録が残っており、

 

司馬炎によって「呼廚泉を王公特進の下に置いた」

という記載が残っているだけになります。

 

 

呼廚泉に関しての記録はこれで終わっており、

最終的に呼廚泉が亡くなった時期は完全に不明で、

 

呼廚泉の子が単于を引き継いだというような記録さえも残っていません。

 

 

そして記録によると、呼廚泉に代わって。

左賢王の一族が力をつけてきたというふうに締めくくられています。

 

左賢王はおそらく劉豹の一族なので、

劉淵という後に晋を滅ぼす呼廚泉の兄にあたる於夫羅の一族になりますね。