陶謙に仕えた人物としてあえて猛将と呼ぶ人物をあげるとすれば、皆さんは誰が思い浮かぶでしょうか?
劉備を資金面でも精神面でも支えた糜竺・糜芳兄妹といった人物は猛将とは言えませんし、
曹操の父親を殺害した張闓も猛将とは違う部類の人物ですし、
陳珪・陳登親子もまた猛将というイメージはないように感じます。
ただここで猛将としてあえて曹豹を挙げたいと思います。
曹豹は吉川三国志や横山三国志ではやられ役のポジションを与えられており、
光栄三国志(歴史シュミレーションゲーム)でも低い能力値でネタにされてしまった人物でもあります。
ただ正史三国志や三国志演義に描かれた曹豹像を見ていくと、
ただのやられ役という印象とは違った姿が垣間見えてきたりします。
目次
正史三国志に残る曹豹像

曹豹は陶謙に仕え、揚州丹陽郡の出身である可能性が高い人物になります。
軽く補足しておきますが、曹豹が丹陽郡の可能性が高いと記載したのは、
正史にはっきりとした記録がないからです。
その上でその可能性が高いと解釈したのもまた理由があり、
主君であった陶謙が丹陽郡出身である事、
そして曹豹とも関係が深い可能性がある許耽もまた丹陽郡の出身だからです。
| 中平元年(184年)に下邳の国王であった劉意が死去しているが、
後継者がいなかった事で、下邳国は廃止されて下邳郡と改められている事が「後漢書」霊帝紀に残されている。 黄初三年(222年)に曹宇が下邳の国王となっている事から、曹丕が魏を建国した後に再び復活したような流れになる。
ただ「後漢書」劉衍伝には、中平元年(184年)に劉成が亡くなった後に、 劉宜(哀王)が跡を継ぐも数か月して亡くなったとあり、劉成に息子がいた事が記録として残されている。 そしてその後に誰が下邳の国王となっていたかは不明であるが、下邳国が下邳郡となったのは、建安十一年(206年)と記録には残されている。
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興平元年(194年)夏に、曹操が徐州に攻め寄せた時に
劉備とともに郯の東に駐屯して迎撃したが敗走した事が「魏志」武帝紀に残されています。
これは曹操による徐州大虐殺が行われたタイミングですね。
陶謙の病没後は劉備が徐州を引き継ぎ、曹豹は他の重臣らと同様に劉備に仕えています。
また建安元年(196年)に袁術が徐州へと侵攻してきた際には、
劉備自らは盱眙・淮陰にて袁術を防ぎつつ、下邳の国相であった曹豹は張飛と共に下邳の守りを任されていたわけです。
国相に任じられている時点で、それなりの人物であった事がこの一点だけでうかがい知れます。
-当時近辺の国相を務めた人物の参考例-
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曹豹の記録① -正史三国志(「蜀志」先主伝)–
上でも軽く述べていますが、
建安元年(196年)に袁術が徐州へと侵攻してきた際に、
劉備自らは盱眙・淮陰にて袁術と数ヶ月にわたって対峙していたものの、
その隙をついて呂布によって下邳が奪われてしまいます。
この時に下邳相であった曹豹が密かに呂布を招き入れた事が記録として残されています。
曹豹の記録② -「蜀志」先主伝(裴松之注「英雄記」)
この内容は「蜀志」先主伝の上記の内容に注釈を加えられたものになります。
劉備は下邳の守りを張飛に任せ、自らは淮陰(石亭)にて袁術と戦います。
この際に張飛は曹豹を殺そうとしたので、曹豹は手勢をもって陣を固めて守りつつ、使者を送って呂布を招きます。
そして呂布は下邳を奪う事に成功し、張飛は敗走しています。
これを聞いた劉備は下邳へと帰還をしますが、下邳に到着した頃には兵が離散してしまっており、
仕方なく劉備は自軍を立て直して再び袁術と戦うも敗れたと残されています。
曹豹の記録③ -正史三国志(「魏志」呂布伝(裴松之注「英雄記」)-
呂布は水路・陸路の両面から進行してきており、軍は下邳の西四十里に到着した際に、
許耽(中郎将)が夜間に、章誑(司馬)を使者を派遣して呂布に次のように述べています。
| 張飛と曹豹が争い、張飛が曹豹を殺害した事で城中は混乱しております。
丹陽兵の千人をもって城内(西門付近)に屯営しておりますが、呂布殿が東より来ている事を聞いて多くの者達が喜んでおります。
もし呂布殿が西門に向かわれましたら、彼らが西門を開いて迎え入れる事でしょう。 |
そして呂布が西門へと到着すると、丹陽兵は開門して呂布の軍勢を招き入れ、
張飛は敗れて、劉備の妻子らは捕らえらる事となりました。
曹豹 -三国志演義-


横山光輝三国志(10巻64P・65p)より画像引用
三国志演義で描かれる曹豹は、陶謙に仕える勇将として登場しています。
そして「魏志」武帝紀にあるように、曹操の徐州侵攻の際に迎え撃つこととなります。
その際に曹豹は夏侯惇と一騎打ちを繰り広げており、
そんな最中に突風が巻き起こった事で、最終的に両軍は退却しています。
つまり曹豹は猛将として知られる夏侯惇と一騎打ちを繰り広げ、経過はどうあれ引き分けた人物だと言えるという事です。
| 正史三国志に見られる夏侯惇は、曹操から絶大な信頼を得られた人物ではあるが、
戦いでの結果はそれほど見事な戦歴とは言えないが、三国志演義では非常に強い武人として描かれている。
高順を一騎打ちで破ったり、関羽や趙雲などとも一騎打ちを繰り広げている事などからも、 三国志演義における夏侯惇の強さは十分に証明されている。 |
そしてそんな曹豹ですが、娘は呂布に嫁いでいる事からも、
呂布と一族としての繋がりがある設定ともなっており、その中で張飛とのトラブルが発生したわけです。
そして酒に溺れた張飛を諫めた事で、災難(張飛による暴力)が降りかかり、
この流れの中で呂布に助けを求めたという同情の余地が多い描写へと繋がります。
結果として曹豹は呂布を城内へと招き入れた事で張飛は敗れ、
曹豹はわずかな兵と共に城から脱出する張飛を見つけると、これを追撃しています。
ちなみにこの時に曹豹は張飛とも一騎打ちを繰り広げていますが、
三合で討ち負けて逃走を試みるものの、逆に張飛に追いつかれる形で討ち取られています。
結果的に討ち取られるものの、最後まで勇敢な最期の描写がされているわけです。
曹豹の評価が低い理由を探る


日本で三国志が爆発的に広まったものとして、吉川三国志があります。
これに影響を受けたのが横山光輝であり、横山三国志へ多大な影響を与えた事でもよく知られています。
また吉川三国志は他にも多くの三国志作品にも影響を与えているわけですが、
その吉川英治が影響を受けたのが、三国志演義の翻訳書「通俗三国志(50巻)」になります。
| 湖南文山(江戸時代)は義轍・月堂の兄弟が使った筆名だと言われており、
中国から伝わった三国志演義を義轍が翻訳を開始し、義轍の没後は月堂が引き継いで完成させたとされています。
ちなみにそこから約150年の月日を経て、 葛飾北斎から「戴斗」の号を譲られた葛飾戴斗(二代目)の挿絵を加えられたものが「絵本通俗三国志」であり、 これにより更に人気の広がりを見せていく事となります。 |
吉川三国志では曹豹の多くの勇敢な描写のシーンがカットされており、
これが横山三国志でも反映されており、今のような曹豹が低く評価される一因となった事がうかがい知れます。
また他にもこれに大きすぎる影響を与えたのが光栄三国志(歴史シュミレーション)になります。
ここでの曹豹の評価が尋常ではない程に低いのです。半ばネタ扱いされる程に・・・






