晩年の孫権に振り回された人物の一人として名前が挙げられるのが、
今回紹介する孫覇ではないかと思います。
孫権の子でありながらも、
兄である孫和と対立したことで「二宮の変」が起こり、
自らも不幸な末路を辿ることとなり、
呉の国の衰退の原因を作ってしまう事となったわけですからね。
孫覇(子威/そんは)
孫権と謝姫の間に孫覇は生まれます。
孫覇の兄には孫登・孫慮・孫和がおり、
弟には孫休・孫亮らがいるわけですが、
生まれた順番的にも、
もともと後継者になる可能性が非常に低かった人物なんですよね。
そもそも兄である孫登が既に太子(跡継ぎ)に任じられていましたし、
孫登が亡くなってからも孫和が太子にたてられていましたから、
孫権は孫登が生存時には孫和を可愛がっており、
それを分かっていた孫登が孫権を気遣って、
自分の死が間近に迫った際に孫権に孫和を太子にたてるように遺言を残したりもしてましたしね。
孫登の遺言のこともあってか、孫和が太子におかれたのですが、
ここで孫権の気紛れ行為によって孫覇の運命が一転してしまいます。
孫権はここにきて、孫覇を可愛がりだしたのです。
孫登生存時は孫和を可愛がっていたことで、
孫登はそれに苦しんでいたというのにまた同じことをやりだしたわけですね。
まぁ自分の子を可愛がるのは悪い事ではないのですが、
孫権の場合は太子である孫和との待遇が変わらないほどで、明らかに度を超えたものでした。
二宮の変(孫和VS孫覇)
孫権は庶子であるはずの孫覇と太子である孫和に対して同等の教育を施し、
同じ宮殿に住まわせたり、
同じ馬車に乗せるなど太子と区別ない待遇をしてしまいます。
これに対して臣下から、
「太子と庶子を同列に扱うのは問題が発生しますよ!」と注意を受けたことで、
孫権は「確かに・・・」とこれを聞き入れたわけです。
ただこれに根をもったのが孫覇でした。
そしてこれ以降というもの、
孫和と孫覇の関係がぎくしゃくしてしまいます。
また事態は二人の関係だけに止まらず、孫和派と孫覇派に国が分かれてしまいます。
これが呉が衰退する原因となった「二宮の変」ですね。
この時に孫和側についたのは、
陸遜・諸葛恪・朱拠・顧譚・吾粲などで、
一方の孫覇側についたのが、歩隲・呂岱・呂拠・孫弘らでした。
また孫覇と屈託した楊竺・全寄・孫奇・呉安らが孫和を廃嫡させようと孫権に働きかけたり、
一方の孫和側の陸遜は、
太子と庶子の区別をきっちりすべきだと孫権に訴えたりと双方の意見が大激突するわけです。
「二宮の変」の末路
孫和を支持していた陸遜は流罪とされ、
孫権から何度も陸遜を責めた手紙が送られ、
その拷問に近いような孫権の手紙に陸遜は憤死してしまいます。
また朱拠・吾粲などが孫覇派の諫言により処刑されたことで、
孫和が廃嫡の方向へと流れができかけていました。
しかし孫覇を支持していた歩隲・全琮といった筆頭人物も普通に亡くなってしまいます。
これにより平行線をたどることになったのですが、
最終的にこれに決着をつけたのが「二宮の変」の原因を作った孫権だったのです。
孫権が降した結論は、国が二分されている現実を解決すべく
孫和を廃嫡とし、孫覇は死を命じられ、
新たに孫亮を太子としたのでした。
ちなみに孫亮は孫権の七男で、孫和・孫覇の弟にあたる人物になりますね。
孫和の廃嫡には孫権もかなり悩んだようですが、最終的に廃嫡という形にしたわけです。
後に孫権が孫和を許してあげようという気持ちに代わったのですが、
当時力をつけていた孫峻(孫静の一族)の反対もあって、
それが実現することはありませんでした。
最終的に孫和は、孫権死後に濡れ衣を着せられた形で、自害を命じられて命を絶っていますね。
孫覇の子供達
孫覇は「二宮の変」を経て自害を命じられていますが、
孫覇には孫基・孫壱という息子がいました。
254年から256年にかけて、
孫基は呉侯に、孫壱は宛陵侯に任じれていますが、
呉のラストエンペラーになる孫晧(孫和の子)が即位すると、
父親であった孫和の復讐といわんばかりに孫覇の子供達に八つ当たりしています。
二人は孫晧によって爵位は剥奪された挙句に、
会稽郡へと送られたのでした。
この時に孫覇の母であった謝姫も・・・
会稽郡に行ってからの謝姫・孫基・孫壱らがどうなったかは記録では残っていません。
ただ唯一の救いとして、処刑までした記録がない事でしょう。
その後の孫晧は一族や配下の者達を次々に処刑していき、
呉の滅亡を一気に加速させた戦犯になっていくのですから・・・
ただそれ以前に国を大きく乱した「二宮の変」がなければ、
また違った呉の未来があったかもしれませんね。