呉のラストエンペラー

呉のラストエンペラーといえば孫晧ですが、

三国志史上最悪の皇帝と言われています。

 

もともと呉を立て直してくれることを期待されて皇帝になりますが、

実際はとんでもない人物で、最終的に呉の滅亡につながっていきます。

 

孫晧の悪行の数々は色々な文献にも沢山残ってたりしますが、

今回はあくまで三国志正史に記録として残っているものだけを抜粋したいと思います。

孫晧への愚痴

呉の丞相であった濮陽興は張布と手を結んで、

孫晧を帝位につけます。

 

しかし、皇帝に即位してからの孫晧は、

日々悪行がひどくなっていきました。

 

それを見た濮陽興と張布は、

陰で孫晧を帝位につけたことを後悔して愚痴をもらします。

しかしそれが孫晧の耳にも入り、二人は処刑してしまいます。

引き籠もったら死んだと思われた孫晧

魏を称賛

孫晧が徐紹(じょしょう)を魏に派遣した際、

魏王で実質権力者であった司馬昭と会見します。

 

その際に、徐紹が司馬昭を褒めたという理由で、

徐紹を帰還させ、誅殺してしまいます。

 

徐紹を処刑させた孫晧自身も、

既に魏にへりくだっている状態での理不尽な処刑でした。

孫休夫人

先帝であった孫休の夫人であった皇太后を景后に降格させて、

それだけにとどまらず、有無を言わさず処刑してしまいます。

 

また葬儀も宮廷の正殿で行われたものではなく、

庭にあった小さな建物で葬儀が行われたようです。

遷都

張紘の遺言によって、孫権より都として作られた建業でしたが、

265年9月、孫晧の気まぐれで武昌に遷都します。

 

この遷都は、孫晧の気まぐれによって予告なしに行われたので、

民衆達は、大きな痛みを伴う事になってしまうのです。

 

しかし翌年の266年12月、孫晧はまたもや気まぐれに、

建業へ都を戻してしまいます。

 

これにより民衆の生活は切迫してしまい、

孫晧への恨みの日々つのっていったようです。

昭明宮の建設

267年、大規模な昭明宮を築いて、

呉の財政が危機的状況になるまで圧迫してしまいます。

 

孫権が最初に建てた太初宮の大きさが300丈だったのに対して、

孫晧が建てた昭明宮の大きさが500丈だったので、

どれだけ大きかったかが分かると思います。