呉の衰退する原因となった「二宮の変」。

 

呉の太子になりながらも廃嫡に追いやられてしまったのが、

今回の主人公となる孫和になります。

 

「二宮の変」では孫和と孫覇の対立が際立ったことで知られていますが、

「孫和の末路は悲惨であった」と言わざるを得ないでしょうね。

 

ここではそんな孫和の生涯を見ていきたいと思います。

孫和(子孝/そんか)

孫権と王夫人(大懿皇后)の間に生まれたのが、

孫登・孫慮の弟にあたる孫和になります。

 

ちなみにではありますが、孫休(三代目の呉皇帝)の母である王夫人(敬懐皇后)とは、

同じ王夫人でも全くの別人物になります。

 

孫権の妻には王夫人と呼ばれた人物が二人いたということですよね。

 

 

孫権は孫和を大層に可愛がっており、

「皇太子であった孫登もこれには心痛していた」といいます。

 

ただ孫登は孫和と仲が良く、孫権を慕い続けただけでなく、

孫和も弟として可愛がり続けました。

 

もしも孫登が長生きしていれば、「二宮の変」自体が起こらなかったと私は思っています。

 

 

しかし不幸にも孫登が早死にしてしまいます。

そこで次の皇太子に選ばれたのが孫和でした。

 

 

孫登は死に際に孫権と呉の国に対しての遺言を残しており、

 

国が乱れることがないように、

孫権が可愛がっていた孫和を自分亡き後の皇太子にするように推薦しています。

 

孫和は19歳で皇太子に任じられたわけですが、

孫和の苦悩はここから始まることになっていくことになります。

諸葛亮の「出師の表」の呉版、孫登の「遺言状」

優れた人物であった孫和

孫和は父親から可愛がられているという理由だけで、

孫登も後継者にするように遺言を残したわけではありませんでした。

 

実際に孫和は優れた人物でもあったのです。

 

 

また孫権自身も闞沢・薛綜・鍾離牧しょうりぼくといった優れた者達を孫和の傍に置いて、

孫和の更なる成長に期待したわけです。

 

孫和は役人が日常茶飯事に不正を行っている事実を知ると、

これを正すように進言したこともありました。

 

 

また高い地位にある者達が六博や囲碁ばかりやって、

文武を疎かにしている現状を見て、これを嘆いたこともあったようです。

 

 

孫和が六博(ボードゲーム)や囲碁を非難したのには一つ理由があり、

 

側近の蔡潁さいえいが六博や囲碁にはまっており、

「間接的に諫める」という意味合いもあったわけです。

 

 

ちなみに「六博」という言葉から、

賭博・博打という言葉が誕生したのは余談です。

 

 

まぁ囲碁は呉の地盤を築いた孫策も囲碁が好きだったようですし、

 

呉を大きく支えた陸遜・諸葛瑾であったり、

江南八絶の一人に数えられた厳武も囲碁を嗜んでいたという現状もありましたが・・・

 

 

 

ちなみに孫策と呂範が打った棋譜が現在にも伝わっており、

世界最古の棋譜だとされています。

 

これは孫策軍の規律が緩んでいた時に、

規律を正す為に呂範自身を都督に任じるように願い出た時の棋譜とされていますね。

 

 

ただ日本最古の棋譜とされている日蓮&吉祥丸の棋譜同様に、

偽物だという意見があるのも現状のようです。

 

 

まぁあくまで孫和が言いたかった事は、

 

「文武を疎かにしてまでやることではない!」

といったような意味合いだったのでしょうね。

二宮の変(孫和VS孫覇)

孫権は庶子であるはずの孫覇と太子である孫和に対して同等の教育を施し、

 

同じ宮殿に住まわせたり、

同じ馬車に乗せるなど太子と区別ない待遇をしてしまいます。

 

 

これに対して臣下から、

「太子と庶子を同列に扱うのは問題が発生しますよ!」と注意を受けたことで、

孫権は「確かに・・・」とこれを聞き入れたわけです。

 

 

ただこれに根をもったのが孫覇でした。

 

そしてこれ以降というもの、

孫和と孫覇の関係がぎくしゃくしてしまいます。

 

また事態は二人の関係だけに止まらず、孫和派と孫覇派に国が分かれてしまいます。

これが呉が衰退する原因となった「二宮の変」ですね。

 

 

この時に孫和側についたのは、

陸遜・諸葛恪・朱拠・顧譚・吾粲などで、

 

一方の孫覇側についたのが、歩隲・呂岱・呂拠・孫弘らでした。

 

 

また孫覇と屈託した楊竺・全寄・孫奇・呉安らが孫和を廃嫡させようと孫権に働きかけたり、

 

一方の孫和側の陸遜は、

太子と庶子の区別をきっちりすべきだと孫権に訴えたりと双方の意見が大激突するわけです。

「二宮の変」の末路

孫和を支持していた陸遜は流罪とされ、

 

孫権から何度も陸遜を責めた手紙が送られ、

その拷問に近いような孫権の手紙に陸遜は憤死してしまいます。

 

 

また朱拠・吾粲などが孫覇派からの諫言により処刑されたことで、

孫和が廃嫡の方向へと流れができかけていました。

 

しかし孫覇を支持していた歩隲・全琮が普通に亡くなってしまったことで、

双方の立場が平行線をたどることになったのですが、

 

これに決着をつけたのが「二宮の変」の原因を作った孫権本人でした。

 

 

孫権が降した結論は、国が二分されている現実を解決すべく、

 

孫和を廃嫡・幽閉し、一方の孫覇は死を命じられ、

新たに孫亮を太子としたことで決着します。

 

ちなみに孫亮は孫権の七男で、孫和・孫覇の弟にあたる人物になりますね。

 

 

ただ孫権自身も孫和の廃嫡には、かなり悩んだようですが、

孫峻(孫静の一族)と相談した結果、最終的に廃嫡という形になったようです。

「二宮の変」で孫和(太子)と争った孫覇

孫和の最後

250年に廃嫡・幽閉されてしまった孫和ですが、

孫和を赦免してくれるように願い出る者達が多くいました。

 

しかし願い出た者の多くが孫権の怒りを買うことになり、

左遷・処罰・処刑される始末・・・

 

 

それからしばらくしたある時に、

「孫和を許してあげたい」という親心が芽生えたようですが、

孫峻・孫弘らの反対によってそれが実現されることはありませんでした。

 

そして最後まで孫権から許されることはないまま、

孫権自身がこの世を去ってしまいます。

 

 

その後の孫和ですが、言いがかりをつけられたような形で自害させられていますね。

また張氏(孫和の正妻)も孫和に付き従った形で亡くなる事に・・・

 

ちなみに孫和の子であった孫晧・孫徳・孫謙・孫俊は、

孫和の側室であり、孫晧の母親でもあった何姫によって育てられたそうです。

その後の呉の御話

「二宮の変」は、

陸遜をはじめ重臣達の多くが巻き添えを食らう形でこの世を去り、

呉滅亡のきっかけとなっていったのは間違いありません。

 

「もしも孫登が長生きしていたら・・・」

「孫和が孫権の跡をきちんと継いでいたら・・・」

 

 

歴史に「もしも!?(IF)」ということはありえませんが、

それでも「もしも」というのを思わずにはいられないのが「二宮の変」でしたね。

 

そして孫権亡き後は孫亮が跡を継いでいますが、

孫峻・孫綝の専横によって苦しめられ、最終的に廃立させられています。

 

 

その後は孫権の六男(孫亮の兄)である孫休が跡を継ぎ、

孫休も早世してしまい、最終的に孫和の子であった孫晧が跡を継いだ流れです。

 

しかし孫晧の暴虐政治によって国が疲弊してしまい、

280年に晋によって攻められて滅んでしまうのでした。

 

 

孫和・孫覇の争いによって国は傾き、

最終的に孫和の子である孫晧によって呉が滅んでしまったとは悲しい事ではありますね。

孫皓 -暴虐の限りを尽くした呉のラストエンペラー