孫晧 –呉のラストエンペラー

孫晧呉の四代目皇帝になった人物であり、

呉のラストエンペラーでもあります。

 

 

賈充の娘である賈南風であったり、

孫権と歩錬士の娘であった孫魯班もだいぶ暴れましたが

 

孫晧の場合は、賈南風や孫魯班が可愛く見えるレベルで残虐非道な人物でした。

 

 

そんな孫晧は、皇太子であった孫和の息子でもありました。

 

しかし二宮の変で孫和は廃嫡となり、後に殺害されてしまいます。

一方の孫覇もまた死を賜った形でした。

 

 

そして新たな皇太子として孫亮が置かれ、

孫和の子であった孫晧も不遇の日々を過ごすこととなったのでした。

 

 

そんな孫晧に転機が舞い込みます。

 

孫亮が廃位させられ、第三代皇帝となった孫休が早世すると、

 

呉の国を立て直すために濮陽興や張布が、

若い孫休の息子ではなく、優れた人物との噂があった孫晧を皇帝に担ぎ上げたのでした。

暴君の誕生

孫晧は即位した当初は善政を敷いたりしますが、

良かったのは本当に最初だけだったのです。

 

 

まず孫晧の餌食となったのは、自分自身の息子ではなく、

 

「私は未亡人ですので、

呉を存続できる人物であれば誰でも構いません」

孫晧が跡を継ぐ事を承認した朱氏(朱太后/孫休の正妻)でした。

 

 

孫晧は朱氏から皇太后の位を剥奪しただけでなく、迫害までも・・・

それがもとで朱氏は死んでしまいます。

 

またそれだけに留まらず留まらず、

孫休と朱氏の子供達を幽閉して殺害したりもしていますね。

 

 

 

またある時に配下の一人の目つきが気に食わないことがあった。

孫晧はその者の目を容赦なくえぐったといいます。

 

他には顔の皮を剥いだりしたこともあったり・・・

 

 

孫晧は直視される事を大変に嫌っていたようですが

 

そんな中で陸凱は孫晧にズケズケと意見をし、

「陸凱にだけは直視を許していた」という逸話もあったりします。

 

 

 

他にも鬼畜の所業ともとれる事を行っており、孫晧は頻繁に宴会を開いていたといいます。

 

ここで孫晧は配下の者達に無理矢理に酒を飲ませていたのですが、

酒の話の逸話なら孫権に勝る逸話の持ち主はいません。

 

 

しかし孫晧はここからが一味違いました。

 

宴会には十人もの人(スパイ)を潜り込ませており、

酒によって悪口を言う者達を見つけて密告させていたのです。

 

そして密告を受けた者は、容赦なく罰則を受けたり処刑されていたりしました。

 

 

その中でもし嘘の報告を受けて殺害された者がいたとしたら悲惨ですけど、

どさくさに紛れてそういう報告をされた人もいたような気がします。

 

 

また孫晧擁立に動いた張布・濮陽興も、

あまりに目に余る孫晧を即位させたことを後悔したといい、

 

その話を耳にした孫晧は、大恩ある二人を普通に殺害してしまったのでした。

朱氏(朱皇后) -呉国を想って散った朱拠と孫魯育の娘-

孫晧の死亡デマ(張美人・張夫人・王夫人)

孫晧の寵愛を受けた人物に張美人がいましたが、

この女性は孫晧によって殺害された張布の娘でもありました。

 

 

ある時に孫晧が張美人に対して、

「お前の父親は今どこにいるのか?」

と自分自身が殺害した張美人の父親の名前を出してからかったことがありました。

 

これに対して張美人は、

「父親は悪人に殺害されました」

と事実をそのままに伝えたわけです。

 

 

この返答に大変な怒りを覚えたのが孫晧で、

寵愛していたにも関わらず、頭に血がのぼってしまいます。

 

そして張美人は棒で叩き殺されてしまうことに・・・

 

 

 

しかし張美人を殺害した事をひどく後悔した孫晧は、

 

張美人の等身大の木像を作らせ、

それを愛でて気を晴らそうとしたこともあったといいます。

 

 

そんな中で張美人に、馮純に嫁いでいた姉がいることを知った孫晧は、

無理矢理に奪い、自身の後宮へと入れて左夫人としたのでした。

 

 

妹への後悔と悲しみの反動からか、姉の張夫人を大層に寵愛したといいます。

それは昼夜の区別もないほどに・・・

 

 

そんな張夫人も後に亡くなってしまうわけですが、

この時も張夫人を想っての孫晧の悲しみは尋常なものではなく、

 

大規模な葬儀を行い、莫大な財宝と共に埋葬したといいます。

 

 

しかし張夫人の葬儀があまりに豪華であったことから、

人々は「孫晧の葬儀だ!」と噂しただけでなく、

 

「孫晧に代わって甥の何都が跡を継いだ」とまで噂されたのでした。

 

 

ちなみにこの死んだデマが流れた話は「江表伝」に書かれてある内容で、

実際に陳寿が著した「三国志(正史)」に裴松之が注釈を数多く加えている書物でもあります。

 

ただ孫晧のデマの話は、

これ以外にも似たようなのが正史にも記載されています。

 

 

 

それは270年の頃の話ですが、

左夫人であった王夫人が亡くなった頃の話になります。

 

王夫人の死を大変に悲しんだ孫晧は、

悲しみのあまりに数カ月間に渡って引きこもってしまいました。

 

これによって人々は孫晧が亡くなったと噂したという話しになりますね。

国力衰退と呉の滅亡

孫晧の後宮には五千人がいたと言われていますが、

気に食わなかった事や苛立つ事があったりすると、殺害して川に捨てていたといいます。

 

ちなみに晋の初代皇帝である司馬炎も、

後宮には五千人の女性がいたとされていますね。

 

 

 

そんな残酷な面が際立つ孫晧ですが、

動物や鳥へは愛情をもって接する事も多く、

 

その中でも特に犬への愛情は深かかったようです。

 

 

孫晧が犬好きだと知った者達は、次々に孫晧へと犬を献上していたようで、

多くの犬を飼う羽目になったわけですが、

 

孫晧は全ての犬にそれぞれ一人の世話係をつけて対応したほどだったといいます。

 

 

孫晧は占いを信じる事も多く、

少しでも悪い占いが出ると配下の者達や住民を酷使してでも成し遂げる事も多かったようで、

 

ある時に住んでいる宮殿で不吉な占いの結果が出たことがありました。

 

 

その際に孫晧が取った行動は、

直ちに新たな宮殿を建てさせていますね。

 

 

また首都を建業から武昌に遷都さたかと思うと再び建業に戻したりと、

気紛れ的に住民に大きな負担を課せる事も平気で行っています。

 

 

またことあるごとに恩赦をやりまくっていたりもします。

 

他にも年号もころころと変更しまくったりと、

明らかに混乱を生じさせるような行為を続けたのでした。

 

 

そんな孫晧のやりたい放題の恐怖政治の中で国力はみるみる低下し、

 

そこを司馬炎につかれる形で、

六方面からの大規模侵攻を受けることとなります。

 

 

そして280年に孫晧が降伏した事で、呉は滅亡してしまうのでした。

㉒晋の天下統一

優しさに満ちた手紙&孫晧の最期

悪逆非道の行為や言動を続けてきた孫晧ではありますが、

ここで配下の者達に向けた不可思議な優しさに溢れた手紙を書いています。

「私は多くの者達を苦しめる政治を続け、

今に至っては降伏する事になってしまった。

 

 

私の罪は死んで許されるような軽いものではない。

 

つまらない人間を近づけ、

貴方達のような忠臣に酷い対応をしてきた事を悔やんでいる。

 

貴方達がこれから晋の為に尽くす事は「不忠」とは言わない。

それぞれの志を大事にして欲しい。

 

体をご自愛下さい」と・・・

 

 

この手紙から孫晧の新たな一面が見えたりしますが、

それまでの行いを見る限りは弁明の余地はないかなとも思いますね。

 

そんな孫晧を陳寿は次のようにまとめています。

「孫晧の降伏を認めたのは誤りである。

首と腰を切断して民に謝罪して然るべきであった」と・・・

 

 

そして孫晧が洛陽へ移り住んでから四年後にあたる284年に、

四十二歳でこの世を去っています。