若かりし頃に大きな失敗をした蒋琬 

蒋琬の若かりし頃というのは実際よくわかっておらず、

零陵郡出身であり、赤壁の戦いに勝利した後の劉備に仕えたところから始まっています。

 

ちょうど荊州南部を攻略して手中に収めたぐらいの時ですね。

蒋琬が二十歳を超えたぐらいの時の話になります。

 

 

そんな蒋琬でしたが、劉備が益州の劉璋を降すと広都県長に任じられています。

 

ただたまたま劉備が広都県を訪ねた際に劉備が目撃したのは、

酒に酔って仕事をほったらかしにしていた蒋琬の姿でした。

 

その様子を見た劉備が激怒したものの、

諸葛亮の取り成しもあって罷免で済んだというだらしない逸話も残っていますね。

蒋琬の夢&趙直の夢占い

丁度免官されたこの時期に、

蒋琬は占い師として有名だった趙直から占ってもらったことがあるんですが、

 

その占いの内容についてせっかくなので紹介してみたいと思います。

 

 

罷免されることになった蒋琬は、その夜に夢を見たそうです。

 

蒋琬の見た夢の内容は

「一頭の牛の頭が門前に転がっており、

その首から血が垂れ流されていた」というもので、

 

蒋琬は罷免させられたばかりという事もあってか非常にこの夢を不安がったのでした。

 

 

そこで夢占いで名を馳せていた趙直にこの話をしたところ、

自身の予想と反して、非常に良い夢だという事が分かったといいます。

 

占った内容を簡単に言ってしまうと、

蒋琬殿が後に公の位まで上れますよ」というものでした。

 

 

後に蒋琬は諸葛亮の跡を託され、蜀の最高位に君臨することになるのですから、

趙直の占いは見事に的中したということになりますね。

魏延・蒋琬・何祗の夢占いを的中させた趙直

諸葛亮から後を託されるまでに成長した蒋琬

蒋琬は劉備によって免職にされたわけですが、

趙直の占い通りに、すぐに什邡県令として復帰しています。

 

 

そればかりか劉備が漢中を手中に収めて漢中王を名乗ると、

尚書郎に任じられていることからも、

 

順調に出世コースを歩んでいったわけですね。

 

 

蒋琬の才能は諸葛亮からも高く評価され、

 

劉備が夷陵の戦いで敗れて亡くなると、

諸葛亮から直々に声がかかり、その期待に、見事に応えていくこととなります。

 

 

また諸葛亮が北伐に乗り出した際は、

蒋琬は張裔ちょうえいと共に成都の留守を任されるまでに信用されたのでした。

 

諸葛亮自身も自分に何かあった際は、

「蒋琬に跡を託そう」と考えていたといいます。

 

 

そして実際に諸葛亮が五丈原で没する直前に、李福が見舞いに訪れた際には、

「蒋琬に跡を託すように!」と遺言を残しています。

⑮諸葛亮の北伐(第1次〜第5次)

諸葛亮の跡を継いだ蒋琬

諸葛亮は五度にわたって北伐を実行するも、最終的に五丈原で没してしまいます。

この時に後事を託されたのが、諸葛亮自身の遺言にもあった蒋琬でした。

 

 

ちなみに第一次北伐の際に街亭の戦いで敗れた馬謖を処刑した際に、

 

「天下はまだ治まってもいないのに、馬謖のような智謀の士を処刑してしまったのは惜しい・・・」

と馬謖の死を惜しんだのは有名な話です。

 

 

他にも諸葛亮の死によって慌てふためく人達が多い中で、

蒋琬はいつも通り冷静な振る舞いを心掛けて、人々を安心させたといった話もありますね。

 

そんな逸話も残る蒋琬ですが、

彼はほぼすべての最高位を任されていく事となります。

  • 大将軍→大司馬(軍事の最高位)
  • 録尚書事(行政の最高位)
  • 益州刺史(地方行政の最高位)

 

 

そして蒋琬は諸葛亮の北伐の意志を引き継ぐためにも漢中に滞在しながら魏に備え、

職務全般をこなしていたようです。

 

だから成都で決められたことも毎回使者を漢中の蒋琬の元に派遣して、

きちんと蒋琬の意見を聞いてから施行されていたのでした。

漢水を利用した幻の北伐計画

蒋琬は諸葛亮の北伐の意志を継ぐためにも、漢中で約九年にもわたって準備を整えていました。

 

また諸葛亮の北伐とはまた違う作戦を考えており、

それは漢中から上庸方面に流れる漢水(水路)を利用した北伐でした。

 

方角的に言えば、ほとんど「東伐」と呼んだ方がいいかもしれませんね。

 

 

そして姜維には北方地域の守備を任せ、

いざ実行しようとするも持病が悪化したことでなかなか実行に移せず、

 

最終的に敗北した際の危険性から費禕に反対されてしまいます。

 

 

蒋琬としては長く準備してきており、蒋琬なりにきちんと考えた戦略ではあったものの、

 

川に流れにのって攻め込むは簡単ではあるけれども、

敗北した際の退却が困難であることもまた間違いなかったからです。

 

 

実際に過去に劉備が呉へと攻め込んだ夷陵の戦いも、

水路を利用して呉へ攻め込むも、最終的に大惨敗へと繋がっていますから・・・

 

そういうのが費禕の脳裏にも残っていたのでしょう。

 

 

そんな中で蒋琬の持病が更に悪化したことで、

この計画は完全に中止になり、それから三年後にこの世を去ることになります。

蒋琬が計画した幻の北伐計画

「十人十色」の語源(蒋琬・楊戯の逸話)

「十人十色」の語源と書きましたが、「十人十色」の語源はいくつかあります。

二人の逸話はそんな語源の1つだとされている御話です。

 

 

「十人十色」の意味は、説明するまでもないかと思いますが、

 

「十人の人間がいたら、

十人とも考え方や性格は違うものである」といった意味があります。

 

 

ここで紹介する楊戯という人物は、陳寿によって個人伝が立てられている人物で、

「季漢輔臣賛」の著者でもありますね。

 

「季漢輔臣賛」のお陰で知る事ができた内容も多々あり、

蜀漢の人材を知る上で貴重な資料(陳寿が楊戯伝に「季漢輔臣賛」の内容を添付している)でもあるのは余談です。

 

 

 

また楊戯は諸葛亮や蒋琬からも高く才能を評価されたこともあり、

蒋琬は楊戯に助けられた事も多々あったといいます。

 

そんな二人の話になりますが、ある時に蒋琬と楊戯が議論していました。

 

 

その中で楊戯が言葉に詰まってしまうことがあり、蒋琬の問いに対して返答しなかったことがありました。

 

 

これを聞いたある者が楊戯を貶める為に、

「蒋琬殿の問いに返答をしなかった楊戯殿の態度は、

あまりにも無礼すぎだと私は思いますよ。」と話しかけたことがありました。

 

 

この者に対して蒋琬は次のように答えます。

「その場で楊戯殿を批判するならまだわかるが、

本人がいない場所で今のように批判することはそもそも間違っている。

 

その上であえて貴方に対して答えるが、一人一人の顔が皆違うように、

一人一人の考え方が違うのもまた当然のことである。

 

 

楊戯殿があそこで私に賛成していれば、自分自身の考えを曲げたことになる。

逆にあそこで反対していれば、私を批判したことになる。

 

それが楊戯殿が、あの時に無言を貫いた理由ですよ」と・・・

私情を挟まなかった蒋琬と楊敏の逸話

督農を任されていた人物に楊敏ようびんという人物がいました。

 

楊敏は諸葛亮の後任となった蒋琬に対して、

「蒋琬殿は諸葛丞相に全然に及ばない!」と罵ることがありました。

 

これに対して蒋琬は、

「貴方が言っているように、

私は諸葛丞相には遠く及ばない」と冷静に返したといいます。

 

 

後に楊敏が罪を犯した事で蒋琬に裁かれる事があったわけですが、

蒋琬は私情を挟むことはなく、楊敏の罪を公平に裁きます。

 

蒋琬は諸葛亮の人となりを長らく近い立場で見てきたからこそ、

どんな時でも冷静で対応することの大事さに気づいていたのでしょう。

蒋琬の評価

ちなみに蜀の柱として支えた人物として、

蒋琬以外に諸葛亮・費禕・董允の四人があげられますが、

 

四人を総称して「蜀の四相」と呼ばれています。

 

 

また陳寿は「蜀志」蒋琬伝にて次のように締めくくっています。

「小さい事での失敗こそあったものの、

蒋琬は万事に整っており、威厳がある人物であった」と評価しています。

 

 

またそれだけではなく、東晋の人物である袁宏は、

「三国名臣序賛」においては、蜀の名臣を四人げていますが、

 

その中に諸葛亮・龐統・黄権と並んで名前が書かれてあったりします。