魏を支えた五大将軍といえば、

張遼・楽進・于禁・張郃・徐晃の5人のことですけど、

曹操の覇業を支えた曹操にとってなくてはならない将軍達でした。

 

今回はそんな魏の五大将軍と言われた大物の二世達を取り上げてみたいと思います。

張遼の子、張虎(ちょうこ)

222年、張遼(ちょうりょう)が曹丕の命で孫権討伐を命じられ、

この時病気の身であったにもかかわらず、曹休らとともに出陣します。

 

そして呉討伐に向かうも、

病気が悪化し、この年亡くなっています。

 

この時、張遼の晋陽侯の爵位を継いだのが子の張虎でした。

 

そして張虎に関する目立った記述がなく、

張虎が死んだ後、張虎の子である張統(ちょうとう)が跡を継いだという事だけです。

三国志演義での張虎

ただそんな張虎ですが、三国志演義ではなんだかんだ登場してます。

 

諸葛亮の北伐では、

特に次に紹介する楽綝(がくちん)とコンビで登場する機会が多く、

二人は諸葛亮の引き立てる役目として多く登場しています。

 

 

そんな中で張虎が一番恥ずかしく悔しい思いをしたのは、

 

司馬懿の作戦が諸葛亮に見破られた際に、

楽綝(がくちん)・戴陵(たいりょう)らと共に捕らえられたんですが、

 

司馬懿を怒らせて誘い出すために、裸にされて解放されたことでしょうね。

横山光輝三国志(56巻64P・65P)より画像引用

 

 

ただ諸葛亮の作戦が司馬懿に破られた際に、

勇猛果敢な呉班(ごはん)を弓矢で射殺するという功績をあげています。

呉懿の後釜的な存在であり、任侠精神を内に秘めていた伊達男「呉班(ごはん)」

 

また遼東半島を支配していた公孫淵が魏に背くと、

司馬懿に付き従って遠征し、公孫淵討伐で活躍したそうです。

 

その後は自然と消えて言った感じで、登場もなくなっています。

二股外交の先に、独立国を夢見た公孫淵

楽進の子、楽綝(がくちん/がくりん)

218年、楽進(がくしん)がこの世を去ると、

楽進の子であった楽綝が跡をつきます。

 

255年、毌丘倹(かんきゅうけん)と文欽・文鴦(ぶんおう)親子が反乱を起こすと、

司馬師はこの鎮圧に向かいます。

高句麗討伐最大の功労者で、魏への忠誠を貫いた毌丘倹(かんきゅうけん)

 

しかし文欽の子である文鴦が、10騎程度の兵を率いて突撃してくると、

司馬師は治療して間もなかった左目の下の傷が悪化し、左目が飛び出してしまいます。

「趙雲の再来」と言われた一騎当千の猛将、文鴦(ぶんおう)

 

この時、司馬師は痛みを堪えながら指揮をした際に、

司馬璉(しばれん)に騎兵、楽綝に歩兵を預けて文欽・文鴦親子にあたらせました。

 

その後、文欽・文鴦は呉へ逃亡し、

毌丘倹は討ち取った事で、この反乱は無事に鎮圧されます。

司馬師は左目が飛び出した事が原因で、この年亡くなっています。

 

 

毌丘倹・文欽の反乱鎮圧にも参加していた諸葛誕に対して、

司馬師の跡を継いだ司馬昭が「三公である司空に任命する」ということを楽綝に伝えさせます。

 

これに対して諸葛誕は、

「私が三公に任命されるのは順序がおかしい。

普通ならば王昶(おうちょう)が先のはずだ!

 

ましてや司空任命にあたり皇帝からの死者も寄こさず、

楽綝に伝えさせている!!

 

そして私のもとにいる兵士を楽綝に委ねよというのはおかしすぎる!!!」

 

そう言うと、諸葛誕は側近を引き連れて、楽綝が滞在していた役所へ押し寄せ、

楽綝は諸葛誕に斬り捨ててしまいました。

 

 

そして中央には、

「楽綝は嘘ばかりついて、私が呉と通じていたりと貶めようとした為に斬り捨てました」

と報告していますが、司馬昭は諸葛誕の言葉を信じる事はありませんでした。

 

司馬昭は諸葛誕が謀反を企んでいると判断すると、

諸葛誕も寿春で反乱の火の手を上げはしたものの、司馬昭に鎮圧されてしまいます。

司馬一族に反乱を起こした魏の諸葛一族、諸葛誕(しょかつたん)/【諸葛亮=龍、諸葛瑾=虎、諸葛誕=狗】

 

諸葛誕によって切り捨てられてしまった楽綝は、

衛尉の職を追贈され、愍侯という諡(贈り名)を与えられ、

 

楽綝の爵位は、楽綝の子であった楽肇(がくちょう)が引き継いだそうです。

常に己の命を最前線に置き続けた勇将、楽進

于禁の子、于圭(うけい)

于禁が関羽に敗れ、関羽の元に降伏して捕虜となり、

その後、孫権によって関羽を捕らえ処刑すると、于禁は呉の捕虜となります。

 

苦労の末に、魏に返された于禁ですが、

曹操は既にこの世を去っており、曹操の跡を継いだ曹丕によって辱めを受け、

それがもとで不遇の死を迎えます。

たった一度の失敗で不幸な末路を迎えた悲しい将軍、于禁

 

その後、于禁の子であった于圭が跡を継いだそうです。

ちなみに于圭に関する記載はこれだけで、何をしたのか全く分かりません。

 

ただ于圭が于禁の爵位等を引き継いだという事で、実際曹丕が于禁に対して辱めを与えたというのは、

実際なかったんじゃないかとも言われています。

張郃の子、張雄(ちょうゆう)

231年、司馬懿の命令で撤退を始めた諸葛亮を追撃した張郃ですが、

諸葛亮によって返り討ちにあって討死してしまいます。

 

 

張郃には5人の子供がいたそうですが、

名前がかろうじて残っているのは張雄になります。

 

そして正史には、張雄が張郃の跡を継いだとあるのみです。

 

また曹叡は、張郃のこれまでの功績の大きさから、

張雄含み4人の子供達を平等に列侯に、末の子を関内侯に封じたそうです。

徐晃の子、徐蓋(じょがい)

227年、徐晃が病死すると、

徐晃の子であった徐蓋が跡を継いでいます。

 

そして徐蓋が亡くなった後は、

徐晃の孫である徐覇(じょは)が跡を継いだようです。

 

ちなみに正史に残っているのはこれだけなので何とも言えません。

 

それと徐覇はおそらく徐蓋の子であるとは思いますが、

そのあたりもはっきりした詳細は残っていないという状態ですね。

「長駆」の産みの親は、徐晃!!

最後に

魏を支えた五大将軍の子供達、

つまり大物二世について見てきたわけですが、

これといって大きな活躍した者はいません。

 

まぁその中で一番活躍したのではないかと思うのは、

諸葛誕に殺害されてしまうものの毌丘倹・文欽の反乱の鎮圧に貢献した楽綝だと思いますね。

 

また張虎は三国志演義で諸葛亮のやられ役とはいえ、

楽綝と協力して呉班を討ち取る活躍を見せた点などを評価して、一応次点で評価できるかもしれませんね。

 

あくまで三国志演義での話ですけど・・・

 

 

そして于禁の子(于圭)・張雄(張郃の子)・徐蓋(徐晃の子)に関しては、

父の跡を継いだというだけで、似たり寄ったりです。

 

蜀にしても呉にしても戦場で活躍した大物の二世達は、

魏の五大将軍と比べても似たり寄ったりの二世が多いため、

父が偉大だと子も無駄に期待されて大変な気苦労をしたのかもしれませんね。