諸葛亮・蒋琬・費禕と並んで「四相(四英)」称された董允とういん

 

他の三人に比べるとどうしても見劣りする感じで見られることが多い董允ですが、

 

諸葛亮・蒋琬・費禕の裏方的な立ち位置として、

蜀を支え続けた功績は非常に大きなものであるのは間違いなく、

 

蜀の人物を語る上で董允は必ず名前が挙がる人物でもありますね。

 

 

そんな董允の生涯についてここでは見ていきたいと思います。

董允(休昭)-劉禅の教育係-

董允は劉備が劉璋を降して益州を支配下に置き、

劉備が漢中王を名乗った際に劉禅を「太子」と任じていますが、この時に登場しています。

 

ちなみに董允は「蜀志」董允伝が立てられている人物でもあります。

 

 

董允は荊州南郡の出身ですので、

劉備が荊州南部を手中に収めた辺りに仕えた人物の可能性も想像できますが、

 

 

父親である董和は一族を率いて早くに劉璋に仕えている事からも、

この時に董允も益州に既に入っていた可能性が非常に高いでしょうし、

 

もしかすると劉璋に既に仕えていた可能性もあると思います。

 

 

このあたりは記録が残されていないので想像するしかありませんが・・・

 

 

とにもかくにも董允が登場するのは、劉禅が太子に任じられた際のことであり、

劉禅を世話する「太子舎人」に任じられています。

 

 

太子舎人とは太子(跡継ぎ)を正しい道に導くことが役割で、

つまり劉禅の教育係という大事な役割を任されたわけです。

 

ちなみにですが、太子舎人に任じられたのは董允だけでなく、

董允の親友でもあった費禕も任命されていますね。

 

 

費禕もまた父母を早くに亡くしており、

一族であった費伯仁(費伯仁の姑が劉璋の母親)に身を寄せており、

 

これらの縁から仕官こそしなかったものの、費禕も荊州から益州に移っていたようで、

 

二人が親友であった事を考えても、

董允が早くに益州にきていた可能性は高いかなと思います。

費禕 -蜀漢を支え続けた最後の「四相(四英)」-

諸葛亮の北伐の際に、郭攸之と共に劉禅を任された董允

劉備が白帝城で亡くなり、劉禅が跡を継いだ際には、

建興二年(224年)に董允は費禕・郭攸之と共に、黄門侍郎に任命されています。

 

ちなみに黄門侍郎は、皇帝(劉禅)の側で使えた者達に与えられた官職ですね。

 

 

建興六年(228年)になると、

諸葛亮が劉禅に対して「出師の表」を上奏し、

諸葛亮は魏を討ち滅ぼすべく北伐(第一次北伐)へと向かうわけですが、

 

「出師表」には、劉備から受けた多大な恩恵に対する感謝とともに、

劉禅に対する親心に似たような事が記載されています。

 

 

 

諸葛亮の「出師の表」ですが、

その文章の中に董允の名前が記載されています。

横山光輝三国志(49巻175P)より画像引用

 

侍中侍郞郭攸之費禕董允等 此皆良実 志慮忠純

是以先帝簡拔以遺陛下

愚以為宮中之事 事無大小 悉以咨之 然後施行

必能裨補闕漏 有所広益

 

ここに何が書かれたあるのかというと、

「劉禅様が宮中内のことで何か悩んだ際には、

費禕・郭攸之・董允に全て相談してくださいませ。

 

そうすれば間違いが起こることもなく、

全てうまくいくでしょう」といった内容ですね。

 

ちなみに軍事面で悩んだ際には、向寵に全て任せるように書かれてありますね。

 

 

ただ諸葛亮は費禕を「参軍」として呼び寄せていますから、

結果的に費禕も北伐に参加しているので、

 

「出師表」にある費禕・董允・郭攸之の三名ではなく、

董允・郭攸之の二人に劉禅を任せた形になったのは余談です。

 

この時に董允は侍中・虎賁中郎将に任じられています。

 

これにより董允は劉禅の教育係という立場だけでなく、

劉禅直属の部隊である近衛兵も指揮できる立場にもなったわけです。

 

 

これがどういうことを意味するのかというと、

諸葛亮が董允を高く評価していただけでなく、非常に信頼していた証拠とも言えるでしょうね。

出師表(前出師表)の全文&書き下し文&翻訳

劉禅を厳しく諫めた董允

劉禅の事を全任された形となった董允と郭攸之の二人ですが、

 

董允と違って、郭攸之は個人伝が立てられておらず、

他の伝を参照することでかろうじて記録が残されている人物になります。

 

郭攸之はおとなしい性格であり、

劉禅に対して厳しく注意したりすることもほとんどなかったといいます。

 

一方で董允は、

郭攸之の分まで厳しく劉禅に接したといいます。

 

「主君であろうと間違った事は間違っている」

とはっきりと口に出したわけですね。

 

 

その中で次のような逸話が残されています。

 

ある時に劉禅が、

「後宮の女性を増やしたい」

と考えていた事があったようですが、

 

これに対して董允は、

「後宮の女性は12人と昔から決まっています。

 

今はきちんとその数に達しており、

これ以上増やす意味はありません!」

と厳しく諫めた事で、劉禅はそれに素直に従ったのでした。

 

 

 

ちなみに孫晧や司馬炎あたりは

五千人ほどの女性を後宮にいれていたりしてますし、

 

司馬炎が呉を滅ぼした際には、孫晧の後宮にいた女性を移した事で、

一万人ほどの女性が後宮にいたといいますし、

 

そう考えると、劉禅の規模感が非常にかわいく見えてしまいますね。

 

 

ただ魏呉に比べても、

蜀漢の経済事情が厳しい情勢下にあったこともあり、

 

後宮に女性を増やす事で、それだけで国庫に負担を及ぼす事にも直結しますから、

それらのことを考えた上でも董允が反対したのでしょう。

 

 

この頃から後に蜀を滅ぼす一つの要因になっていく黄皓が、

劉禅からの寵愛も受けるようになっていきますが、

 

董允が黄皓に対して厳しく目を光らせていたこともあって、

黄皓は悪事を働くことはできず、宮廷内が乱れることもなかったといいます。

劉禅 -名君にも暗君にもなりえた才能の持ち主(白布の如し)-

董允の死&その後の劉禅

劉禅の補佐を見事にやってのけてきた董允でしたが、

延熙九年(246年)にこの世を去っています。

 

ちなみに董允と同じ年に、董允同様に「四相」の一人であった蒋琬もまた亡くなっています。

 

蒋琬・董允の死によって、最後の「四相」である費禕に委ねられたわけですが、

費禕によって才能を認められた人物に陳祗ちんしという人物がいました。

 

費禕は劉禅を補佐する人物として、

董允に代わる形として陳祗を侍中に任じています。

 

 

しかし後に費禕は魏の降将であった郭循によって殺害され、

陳祗もまた政治の腐敗を招く原因を作っていきます。

 

 

董允があまりにも口うるさく聞こえていた劉禅にとって、

真逆の態度で劉禅に接した陳祗を大層に気に入り、

 

黄皓も次第に劉禅の寵愛を笠に着る形で台頭してきます。

 

 

ちなみに陳祗は費禕が殺害された事によって、

「軍事面を任されていた姜維よりも力を持っていた」

と言われるほどに発言力を持っていました。

 

 

そうなってしまった最大の理由は、

姜維は北伐の為に成都を離れている時間が多すぎた事、

 

一方の陳祗は「劉禅の側近」として常に側にいたという理由が大きいでしょうね。

 

 

ただそうはいっても陳祗が生きている間は、

黄皓も好き勝手にはできていなかったのも事実で、

 

黄皓が一気に力を持つのは陳祗が死んだ後(258年以降)のことになります。

 

 

陳祗はなんだかんだ言いながらも費禕が認めたほどの人物でしたし、

 

姜維の北伐にも賛成していた人物であり、

姜維の北伐を行う上での援護者として、助けられていたというのが実情でしょう。

 

 

しかし陳祗が死んだことで黄皓が幅を利かせ

黄皓と姜維の対立も激化し、蜀滅亡へと繋がっていくわけです。

 

 

 

劉禅を諫める者がいなくなったことで黄皓が台頭し、

結果的に蜀が滅亡するにいたり、

 

「人々は董允の偉大さを改めて再確認した」と言われています。

劉禅に取り入り、蜀の政治の腐敗を招いた佞臣(宦官)黄皓

董允について残る三つの逸話

董和が息子である董允と費禕を比較した際に、

「費禕の方が優秀であった」と気づいた馬車の逸話があったり、

 

董允が費禕の後任として尚書令に任じられた際

才能の差を嘆いた逸話が残されていますね。

 

 

 

他には費禕や胡済と酒を飲む約束をしていたことで、

まさに出かけようとした間際に、董恢とうかいが偶然にも訪ねてきたことがあったそうです。

 

董恢は後に諸葛亮の認められて、

巴郡太守を任されることになる人物ですが、

この話はまだ董恢が立場が低かった時の逸話になりますね。

 

 

 

董允の側付きの者は、

「早く出かけましょう」と董允に語り掛けるわけですが、

 

董允は「わざわざ董恢殿が訪ねてきてくれたのに、

それを無視して出かけることなどできようか!」

と言葉を返すと、董恢の訪問を快く受け入れたといいます。

 

 

董允は費禕や胡済と酒を交わすことなどいつでもできるし、

董恢との会談の方が大事だと判断したのでしょう。

 

 

このような逸話が今に残る董允は、

 

まさしく諸葛亮・蒋琬・費禕と並んで、

「四相」と呼ばれるに相応しい人物だったと私は思いますね。

董和、息子である董允より費禕を高く評価した逸話