諸葛亮が好んでよく口ずさんでいたのが「梁父吟」という詩です。
もともと泰山の麓にある「梁父」という地名にまつわる故事でもあり、
「梁父吟」は「梁甫吟」と言われたりもしています。
「梁父吟」は、孔子の弟子であった曾子が作ったものだと言われたり、
諸葛亮があまりにも「梁父吟」を好んでいたことから諸葛亮の作とも言われているものになります。
まぁ作成者は現時点では、
よくわかっていないというのが正しい所だと思います。
ここではそんな諸葛亮が好んだ「梁父吟」について見ていきます。
ちなみに「梁父吟」は、もともと数首あったとされていますが、
現在に伝わっているのは今回紹介する一首のみです。
目次
「梁父吟」の全文
歩出齊城門(歩みて斉の城門を出ずれば)
遥望蕩陰里(遥かに蕩陰の里を望む)
里中有三墳(里中に三墳有り)
累累正相似(累累として正に相い似たり)
問是誰家塚(問う是れ誰が家の墓ぞ)
田彊古冶氏(田彊 古冶子なり)
力能排南山(力は能く南山を排し)
文能絶地紀(文は能く地紀を絶つ)
一朝被讒言(一朝 讒言を被れば)
二桃殺三士(二桃もて三士を殺す)
誰能爲此謀(誰か能く此の謀を為す)
國相齊晏子(国相 斉の晏子なり)
「梁父吟」の翻訳
斉の城門を歩み出ると、遥か向こうに蕩陰の里が見えてくる。
その里には三つの墓があり、
何重にも重なって高く盛り上がって同じような形をしている。
「これは誰の墓なのか?」と尋ねると、
田開彊・古冶子・公孫捷の墓だということだそうだ。
彼らの武力は南山を引き抜くほど強く、
文才は大地を保つ綱を断ち切れるほどのものであった。
しかしある朝に三人は諫言を受けたことが原因で、
二つの桃と奪い合って殺されてしまったのだ。
誰がこんなことを考え出したのであろうか?
それは斉の宰相を務めていた晏子である。
諸葛亮が「梁父吟」を作った説がある理由は?
陳寿の著した正史「三国志」には「好為梁父吟」といった一文があります。
そしてこの解釈が分かれているのも一つの理由です。
「為」には、「なす」「つくる」と読むことが可能で、
全く真逆の意味になるからです。
- 諸葛亮が梁父吟を好んで、この詩を口ずさんでいた
- 諸葛亮が梁父吟を込んで、この詩を作った
一般的に定説と言われているのが、
劉備に出会う前の諸葛亮が、晴耕雨読の生活をしている中で、
既に存在していたこの詩をよく口ずさんでいたという解釈になりますね。
また何故諸葛亮がこの詩を好んでいたかというと、
出身が徐州琅邪郡の出身で、これは昔は斉の領地だった場所であり、
諸葛亮が幼い頃に聞いた歌を懐かしんで、
荊州に移ってからも故郷を想って口ずさんでいたという話もあります。
他には諸葛亮が政治に興味を示し、
謀略の奥深さに関心を寄せていたから好んで詠んだという理由もあったりします。
田開彊・古冶子・公孫接の三名と絞れた理由は?
「田彊古冶氏(田彊 古冶子なり)」で
田開彊・古冶氏・公孫捷の墓であると解釈をしていますが、
実際この部分の詩を見る限り、
田開彊・古冶氏の二人の名前しか見当たりません。
ですがもう一人の人物が公孫捷であるというのは、別の事から分かる事なのです。
つまり「梁父吟」では、
公孫捷が単純に省略されているんですよね。
省略された理由としては少し悲しんですが、
当時三曹七子の影響もあって「五言詩」が非常に盛んになっていました。
だからこそ五言詩にする為に、
あえて公孫捷の名を詩の中で省略されたといったオチですね。
理由は当時の背景を考えると、結構単純なんです。
ではなぜ省略されている人物が公孫捷だと分かるのかというと、
最後に三人を謀殺した晏子の存在ですね。
晏子とは春秋時代の斉の宰相であった晏嬰のことを指しており、
晏嬰(晏子)の詩についての逸話が「晏子春秋」にきちんと収められていたからです。
そこには、はっきりと田開彊・古冶氏・公孫捷の三名の名が出てきています。
「晏子春秋」に出てくる「二桃三士」の逸話
「晏子春秋」は、
内篇6巻+外篇2巻の計8巻(215章)から構成されたものです。
- 内篇諫上第一
- 内篇諫下第二
- 内篇問上第三
- 内篇問下第四
- 内篇雑上第五
- 内篇雑下第六
- 外篇第七
- 外篇第八
「二桃、三士を殺す」という詩の内容は、
内篇諫下第二の中の二十四章にそれがきちんと書かれています。
-「晏子春秋」での内容 –
斉の景公は、文武に優れた公孫捷・田開彊・古冶子を召し抱えていましたが、
宰相を務めていた晏嬰は、
自分の功績の高さから傲慢な態度を示す三人に危機感を覚えており、
国の将来を憂いて景公に次のように進言したことがありました。
「公孫捷・田開彊・古冶子の三名は優れた人物ではあるけれども、
将来国に災いをもたらす者達でもあります。
ただ優れた者達なので真っ向から挑んでも勝てるものではなく、
策略をもって三人を討ち取ることが大事なのです。」と・・・
晏嬰の策略は桃を使ったもので、
景公から三人に対して二つの桃を送るというものでした。
ただ三人の中で優れた二人が,
桃を受け取るようにとの言葉も添えて・・・
二つの桃を受け取った三人は、
自分が最も優れた者だと思っていたこともあり、自分の功績をあげはじめます。
- 公孫捷「俺は三歳の虎を倒したことがある!」
- 田開彊「俺は兵を率いて二度にわたって敵を破ったことがある!」
二人の自慢話が終わったころに古冶子が、
「俺は君主に連れ添って黄河を渡っていた時に、
巨大な大亀が君主の馬車の左側の副馬を咥えて身動きがとれなくなったことがあった。
そこで私は水中に飛び込み、流れに逆らうこと百歩、流れに従うこと九里、
そしてようやく大亀を捕らえて殺すことに成功した!」と語ります。
これを聞いた公孫捷・田開彊は、古冶子の功績が一番高い事を悟り、
「功績が劣るのに、
生き長らえるのは勇気がないということになるな!」
と言って、二人は自害したのでした。
二人が自害する様子を見た古冶子は、
「一つの桃を二人に半分ずつ分け与え、
私が一つを貰うという手段もあった。
私一人が生き残ってしまうというのは恥ずかしい事だ!」
と言って二人を追って自害したわけです。
これにより晏嬰は何の手も下さずに、三名を死に追いやったのでした。
ただ景公は、死んだ三人に対して士の礼を以って葬ってあげたといいます。
諸葛亮と管仲・楽毅・晏嬰
上で述べたのが「春秋晏子」に書かれてある「二桃、三士を殺す」の内容なわけですが、
この話が元になってできたのが「梁父吟」という詩だったわけですね。
この詩を諸葛亮が作ったにしろ作ってないにしろ、
好んでいたことは間違いなく、
諸葛亮が晏嬰を尊敬し、
自分に重ねていたとみることができると思います。
諸葛亮が管仲・楽毅を目標にしていたというのは有名な話ですが、
諸葛亮にとって晏嬰も尊敬できる人物の一人であり、
管仲と楽毅が生涯の目標であったならば、
晏嬰は目先の目標だった人物だったのではないかと・・・
だからこそ荊州で劉備と出会う前の諸葛亮は、
晴耕雨読の毎日の中で、よくこの歌を口ずさんでいたのかなとも思ったりするわけです。