「出師の表」と言えば、
諸葛亮が北伐時に劉禅に上奏したものになりますが、
多くの人々の心を揺るがし、名文として今日に伝わっているものになります。
そしていつからか「出師の表」を読んで、
涙を流さない者は不忠とまで言われるまでに・・・
ですがそもそも誰がそんなことを言い出したのでしょうかね。
考えたことありますか?
諸葛亮と同世代の人物が言い出したのでしょうか・・・
それとも後世に言われるようになったのか・・・
ちなみに「出師の表」は確かに名文とは思いますけど、
私は「出師の表」の全文を読んだからと涙を流すことはありません。
「出師の表で涙しない者は不忠」の出所
結論を先に言ってしまうと、
「出師の表で涙しない者は不忠」の出所はというと、
三国時代にできた言葉ではなく、1158年から1227年を生きた、
南宋の人物である 安子順の言葉になります。
そしてこの安子順の言葉が残されているのが、
安子順と同時代を生きた趙与時の「賓退録」になります。
ちなみに「賓退録」が著された理由は、
趙与時が客人と会った時に、自身で気に入った言葉があった時にメモした言葉や文章をが膨大になり、
それを十巻にまとめたものが「賓退録」というわけです。
そして「賓退録」の九巻に収められているのが、
「出師の表で涙しない者は不忠」という安子順の言葉になりますね。
安子順の原文・書き下し分・現代語訳
「賓退録」の九巻に、
「出師の表で涙しない者は不忠」と言う言葉が出てくるわけですが、
そこには次のような形で原文が記載されています。
【原文/漢文】
讀諸葛亮出師表不墮淚者不忠、
讀李密陳情表不墮淚者不孝、
讀韓愈祭十二郎文不墮淚者不慈。
これでは読めない人も多いと思うので、
書き下し文で読みやすいようにすると次のようになります。
【書き下し文】
諸葛亮の出師の表を読みて涙を堕さざる者は不忠、
李令伯の陳情の表を読みて涙を堕さざる者は不孝、
韓退之の十二郎を祭る文を読みて涙を堕さざる者は不友。
一般的に諸葛亮の文章だけが取り上げられることが大半ですが、
実際は諸葛亮・李令伯・韓退之の三名があげられた中での一文というのが正確な所なんです。
- 諸葛孔明(諸葛亮)「出師の表」
- 李令伯(李密)「陳情の表」
- 韓退之(韓愈)「十二郎を祭る文」
ではそれらを踏まえて更に分かりやすく現代語訳をしてみましょう。
【現代語訳】
「諸葛亮の出師の表を読んで涙を流さない者は不忠であり、
李令伯の陳情の表を読んで涙を流さない者は不孝であり、
韓退之の十二郎を祭る文を読んで涙を流さない者は不友である。」
と誰でも簡単に訳せるような現代語訳になるわけです。
更に分かりやすく言ってしまうと、次のようなことなのでしょう。
「忠に関する名文は諸葛孔明の出師の表」であり、
孝に関する名文は「李令伯の陳情の表」であり、
友(友情)に関する名文は「韓退之の十二郎を祭る文」である。」と・・・
南宋という時代背景があってこそ生まれた言葉である
もともとは960年以降、宋という国名で呼ばれていましたが、
北方民族である金に北方の領土のほとんどを奪われたことで新たにできた継続王朝になります。
金の侵略時に、宋の皇帝であった欽宗だけでなく、
前皇帝の徽宗が捕らえられたことでもよく知られています。
これが有名な靖康の変になりますね。
ただこの時に徽宗の九男であった趙構が江南に逃れたことで、
復活させた王朝でもあったわけです。
ちなみに南宋時代の有名な人物に岳飛・秦檜がいたりしますが、
教科書で一度は目にしたことがある人も多いのではないでしょうか!?
このように南宋は、異民族(女真族/金)に苦しめられていた時代だったわけです。
そんな中で朱熹によって朱子学が誕生し、
自分達(南宋)と蜀漢を重ね合わせたことで、
魏ではなく蜀が正統であるとの考えが強く生まれたのもこの時代です。
だからこそ生涯に渡って忠義を尽くした諸葛亮が非常に人気が出た時代でもありますし、
後の三国志演義が誕生するきっかけになった時代でもあります。
そんな時代であるからこそ、
「諸葛亮の出師の表を読んで涙を流さない者は不忠である」
という言葉が安子順によって世に生まれたのだと私は思いますね。