三国志に関する小説・漫画などに登場することも滅多にない女性ですが、

 

今回紹介する唐姫とうきは董卓によって廃位&殺害された少帝の正妻であり、

一途に少帝(劉弁)を想った女性でもあります。

 

そんな唐姫について残っている資料も限られていますが、

少帝と唐姫の逸話などを挟みながら見ていきたいと思います。

唐姫(とうき)の出生

唐姫は豫州潁川郡の出身で、

会稽太守を務めた唐瑁の娘としてこの世に生を受けています。

 

唐瑁の一族である唐珍は、

三公である司空に任じられた人物でもあります。

 

ただはっきり言ってこのあたりの一族の者達の詳細な関係は、

よくわからない所があったりします。

 

ただ唐扶について書かれてある碑文に一族の事が書かれてあったと思うんですよね。

 

 

その中で唐瑁や唐珍など一族の者達のことが書かれてあります。

 

ちなみに宦官であった唐衡とうこうも唐瑁・唐珍の一族であり、

唐衡の娘が荀彧の妻であった可能性が高いというのは案外知られてない事実ですね。

 

 

ただこれは荀彧が幼い頃に親が決めた婚姻関係だったようですが・・・

 

もちろん唐衡に娘がいたということは、

唐衡が宦官になる前に産んだ娘という事が言えるでしょう。

 

曹操も宦官であった曹騰の孫ですし、荀彧も宦官の娘を娶っていると考えると、

色々感慨深い所がありますね。

 

 

まぁこのあたりを話すとすごく長くなってしまうので、

 

唐姫の話に戻しますが、

どういう経緯で少帝の妻になったのかは、はっきり言って分かりません。

 

 

まぁ桓帝・霊帝は宦官大好きという皇帝でしたから、

 

その流れの中で宦官とも繋がりがある唐一族の中から、

唐姫を劉弁の妻として迎えたというのが自然な流れでしょうね。

劉弁の即位&廃位

霊帝亡き後、後継者争いで何一族が勝利すると、

何皇后の息子である劉弁が十三代皇帝として即位します。

 

 

しかし皇帝になったまではよいものの、

大将軍であった何進が宦官の逆襲にあって殺害され、

 

一報の宦官は何進側の人間である袁紹らによってほとんどの者達が皆殺しにされる始末!

 

 

その混乱を最終的に収めたのが董卓だったわけですが、

董卓はやりたい放題する日々・・・

 

そして董卓の専横はいくところまでいきつき、

暗愚であると判断した劉弁を廃位して劉協を擁立してしまったのです。

 

劉弁は大きな力を持つ董卓に逆らうことができず、

弘農王として退くことになってしまったのでした。

 

 

ただ劉弁としてはそれでも生きていただけましでしたが、

 

袁紹を盟主にした反董卓連合が結成されると、

劉弁が再度擁立されることを恐れた董卓によって殺害されてしまうことになったのでした。

 

 

その際に董卓の命によって訪れた李儒に、

毒酒を飲むように強要されますが、劉弁は頑なに拒否するものの、

 

最終的に逆らうことが無理だと判断して、劉弁は死を受け入れることにしたのでした。

劉弁・唐姫の逸話

毒酒を無理やりに飲ませて殺害されているように書かれていますが、

実際は死の直前に少し時間を設けられたようです。

 

劉弁は死の間際、

唐姫をはじめ側室らを集めて宴会を開いたと言われています。

 

ここではその際に劉弁と唐姫が交わした逸話が残っているので紹介したいと思います。

 

 

 

そして劉弁は唐姫や側室らを前にして、

次のように歌ったのでした。

「天道易兮我何艱、棄万乗兮退守蕃。

逆臣見迫兮命不延、逝将去汝兮適幽玄。」

 

これを分かりやすく翻訳すると、

「天命は決してしまったが、

私はどれほど苦しめばよいのだろうか。

 

私は皇帝にまでなったが、

では粗末な小屋に押し込められてしまっている。

 

逆賊によって苦しめられた私の人生も間もなく終わりを迎える。

私は間もなくあなたの元を去り、永遠の旅に出ることになるだろう。」

 

 

この劉弁の歌に返したのが唐姫でした。

「皇天崩兮后土穨、身為帝兮命夭摧。

死生路異兮従此乖、奈我煢独兮心中哀。」

 

これも分かりやすく訳すと、次のような感じになりますね。

「天地が裂けてしまってどうすることもできません。

私はあなたの妻として常に付き従っていくのが当然のことでしょう。

 

ですがこれから死んでいくあなたに、

生きている私が付き従う事は叶いません。

 

私の心は悲しさで溢れかえってしまいます。」

 

 

二人の歌を聞いた者達は、皆涙したといいます。

劉弁の唐姫に残した最後の言葉

劉弁にも最後の時が訪れますが、

最後に唐姫に対して次のような言葉を残したと言われています。

 

「貴方は皇帝の妻になった女性であり、

その事に誇りをもってこれからも生きて下さい。

 

だからこそ役人や庶民との再婚はやめて欲しいと願います。

体を労わって長生きして下さいね。

 

ではこれにてお別れです・・・」

 

と唐姫に言い残し、少帝は毒酒を飲んで命を絶ったのでした。

少帝(劉弁) -時代の狭間で翻弄された十三代皇帝-

劉弁の死後の唐姫

劉弁がこの世を去ると、唐姫は生まれ故郷に戻ることとなります。

 

まだまだ若かった唐姫に対して、

父親である唐瑁は「再婚して欲しい!」と考えていたようですが、

 

唐姫が再婚をすることはありませんでした。

 

唐姫としては劉弁と交わした会話を想いだし、それを頑なに守ろうとしたわけです。

 

 

後に董卓が王允・呂布らによって討たれますが、

李傕・郭汜が長安になだれ込んで長安の占拠に成功したのですが、

 

この時に劉弁の元妻であったことを知らなかった李傕が唐姫を捕らえ、

唐姫を気に入った李傕が自分の妻になるように言ったようです。

 

しかし唐姫は李傕の誘いを最後まで断り、李傕の妻になることはありませんでした。

 

 

ここで個人的によく分からない点があるんですが、

唐姫の故郷は豫洲であるはずなのに、何故長安に唐姫がいるのかという疑問!

 

完全に場所が違うんですけどね。

 

まぁ唐姫に関する記述は本当に少ないので、これ以上追求するのは無理ですが・・・

 

 

 

そしてこの話を聞いた賈詡が献帝に対して唐姫の話をしたといいます。

 

その話を聞いた献帝は、唐姫を宮中に迎え入れて「弘農王妃」に任じ、

劉弁の墓の管理を任せたといいます。

 

唐姫のその後は分かりませんが、

生涯を通じて劉弁を想い、劉弁の墓を見守り続けたのかもしれませんね。

動乱を駆け抜けた後漢最後の皇帝、献帝(劉協)

 

 

ここで唐姫に関する記載はなくなっていますが、

 

ただ董卓が洛陽から長安に遷都する際、霊帝の墓も荒らされていたはずなので、

誰かが墓の修繕をした後の話かもしれません。

 

それとも荒れされたままの状態で管理を任されたのかと

色々と考えさせられる点はありますね。

 

 

また賈詡が献帝に知らせたタイミングも実際よく分かりません。

実際賈詡は李傕・郭汜にも仕えていますし、曹操にも仕えていますしね。

 

まぁ話の流れから言うと、

李傕・郭汜に仕えていた頃というのが自然だとは思いますけど・・・

 

賈詡は献帝の長安脱出にも協力したりしていますし。

 

 

上で述べたように記載内容を追求すると疑問が湧いたりするような点はありますが、

 

劉協(献帝)が兄である劉弁(少帝)の死を悲しみ、

唐姫の現状を憐れんで「弘農王妃」に任じてあげたという点は正史に記録が残っているということです。

 

 

三国志でほとんど注目されることが少ない少帝ですが、

 

少帝と正妻であった唐姫の間に、

お互いを思いやった逸話が残っているのも素敵な事だなと思いますね。