楊戯の著した「季漢輔臣賛」には、
正史での記述が非常に少ない人物などが記載されています。
「季漢輔臣賛」がもしなければ、
ただでさえ少ない蜀の人物についての記録が更に少ないものになったのは間違いなく、
そういった意味でも楊戯の功績は非常に大きいものだと言えるものです。
陳寿も記録が少ない蜀の人物らを三国志「蜀書(蜀志)」をまとめるにあたり、
楊戯の「季漢輔臣賛」を不随させたりしていますからね。
今回紹介する王謀は、まさにそんな中の一人になります。
「季漢輔臣賛」での王謀の立ち位置
王謀は楊戯の著した「季漢輔臣賛」の中で、
第15位に記載が残る人物です。
ちなみに15位は王謀以外にも何宗・杜微・周羣も名を連ねています。
ちなみに「季漢輔臣賛」に記載が残る人物は、
これが完成された時に死んでいなかった者達というのが条件なので、
劉禅や姜維などは蜀滅亡時まで生存していますから、「季漢輔臣賛」には登場していません。
王謀を15位と書いていますが、
簡単に説明すると以下のような感じで名前が残っています。
1位は劉備、2位は諸葛亮、3位は許靖、4位は関羽・張飛のような感じで、
蜀の中でも重要人物と思われる順に名前が残っていると思ってもらえれば分かりやすいかと思います。
「季漢輔臣賛」には全部で1番目~32番目まであるのですが、
王謀が15番目というと微妙に聞こえるかもしれませんが、
14位には糜竺がおり、16位に呉懿がいたりすることを考えると、
王謀が蜀の中で重要な位置にいた人物であったのは間違いないでしょう。
それだけに現在に伝わる情報が少なすぎるのが残念に思えてなりませんね。
王謀(元泰)
王謀は漢嘉郡の人で、もともと劉璋に仕えていたようで、
劉璋から巴郡太守に任じられていました。
その後、治中従事に任命されたようですが、
劉備が益州の劉璋を降すと、そのまま劉備に仕えることとなります。
劉備は王謀を治中従事から別駕従事に昇格させ、
劉備が漢中王になると九卿の一つである少府に任じられたのでした。
220年に劉備を即位させようという動きが起こり、上奏文に諸葛亮らと共に名を残しています。
223年には関内侯に封じられ、
最終的には少府から同じく九卿の一つである太常(前任者:頼恭)になったと記録は残っています。
そんな箇条書きに近い情報しか残っていない王謀ですが、
当たり前のように個人伝は立てられていません。
その理由は陳寿が三国志を書いた際に、
王謀に関する史料が散逸していたからだと言われていますね。
ただそれでも楊戯や陳寿は同じことを言っています。
「王謀は振る舞いや礼儀に非常に優れており、
慎み深い人物であった」という事を・・・
ちなみに太常の前任者であった頼恭もまた資料が散逸していたから、
個人伝が立てられなかった一人でもあります。
蜀では本当に資料の不足により個人伝が建てられなかった人があまりに多すぎるんですよね。
そして個人伝が立てられたとしても、
中身があまりにも薄いというのも当たり前なわけで・・・
趙雲などもその代表的な一人ですね。
蒋琬と張休の王謀について語った逸話
大将軍になった蒋琬が、
王謀と同郷である張休に対して次のように語った逸話があります。
「貴方の同郷の先人に王謀という者がいたけれども、
今は誰が彼の跡を継いでいるのか?」
これに対して張休は、
「王謀ほどの人物は益州全体を見ても見当たりません。
ましてや漢嘉郡ともなれば、どこを探してもいませんよ。」
と返したといいます。
蒋琬が気に留める程の人物であり、こういう逸話が残っていることからも、
王謀は個人伝こそ残されていませんが、相当に優れた人物だったのでしょうね。
ちなみに張休と言えば三国志の中にも毌丘倹・文欽らと反乱を起こした魏の張休、
張昭の子で二宮の変に巻き込まれて自殺した呉の張休、
そして第一次北伐時に馬謖と共に斬首された張休と同姓同名の人物が蜀にいたりします。
一般的に張休とは上の三名の誰かを指す場合が大半ですが、
おそらく蜀には上の張休とは別の張休という人物がいたのでしょう。
そうでなければ第一次北伐時に処刑された張休が、
諸葛亮亡き後の蒋琬と王謀の逸話で登場するわけがありませんからね。