劉備の最後の戦いにして最大の損失を出した夷陵の戦い!
関羽の復讐戦といい、荊州奪還の為といい、
その為に皇帝になった劉備が全身全霊をかけて挑んだ勝負・・・
それが夷陵の戦いです。
結果は誰もが知る通り、陸遜の火計によって蜀の大敗に終わるわけですが、
戦いに負けた劉備や勝利した陸遜に8割のスポットがあたった戦いと呼んでもいいかと思います。
しかし蜀の将軍であった馮習・張南・傅彤の三将軍を見ることで、
夷陵の戦いでどれだけ蜀が大きな被害を出したのか分かってきたりします。
馮習・張南・傅彤
蜀の記録が非常に少ないのはもう既存の事実ですが、
これは馮習・張南・傅彤の三人も例外ではなく、ほとんどの情報がありません。
その中で三人がどんな人物だったのか、
そしてどういったことが正史に記載されているのかを見ていきます。
結構三人に持つイメージがない方も多いかもしれませんが、
三人とも荊州出身の人物で、
劉備が荊州南部を手中に収めた辺りに劉備陣営に加わった人物と言われています。
劉備が益州攻略に向かった際も関羽・諸葛亮などを荊州の守りに残しつつ、
黄忠・魏延・龐統など荊州で陣営に加わったばかりの者達を引き連れての出陣でしたし、
夷陵の戦いに参加した劉備も趙雲など歴戦の猛者を江州の守りに残しつつ、
新参と呼べる者達(馮習・張南・傅彤など)で出陣していたりします。
益州攻略で大きな功績を上げた黄忠は既に死んでいますし、
魏延は漢中の守りを任せていたから動かせないのもあったのでしょう。
張飛は関羽の仇討ちに参加する予定が、
寸前で味方に裏切られてこの世を去ったこともあり、
そういった中で総指揮官を任されたのが馮習であり、
その補佐(副将)を任されたのが張南だったのだと思います。
もう一人の傅彤はというと、
まぁ彼が活躍するのは夷陵の戦いに劉備が敗北した後の話ですので、もう少しお預けですね。
そもそもこんな名も分からない雑魚キャラみたいな人物が、
夷陵の戦いにおいての総指揮官・副将だったのと思う人も多いかもしれません。
何故なら自分もそう思う気持ちがあるからですね。
ただそう思うのは正史にほとんど記録が残っていないからであり、
理由はそれだけだと思いますね。
実際劉備に期待された黄忠・魏延は益州攻略で活躍していますし、
馮習・張南も劉備に認められるだけの力を持っていた将軍だったのでしょう。
実際馮習は呉班と共に、夷陵の初戦で李異・劉阿らを撃破していますし、
夷陵の戦いで生き残った呉班は出世していってますからね。
まぁ呉夫人が劉備の妻になったから、
呉懿・呉班が外戚として出世したのも少なからずあるとは思いますけど・・・
夷陵の戦いの大惨敗で討死した馮習・張南
夷陵の戦いの初戦では優勢に展開した劉備軍でしたが、
陸遜の火計に見事にはまって、大惨敗を喫してしまう事になります。
「夷陵で大惨敗したというのは知ってるよ!」
という人は多いかもしれませんが、
その後諸葛亮が国を立て直したのが奇跡と言わんばかりのことであり、
国が成り立たなくなるほどの大損害を食らってしまったのは紛れもない真実なのです。
兵数的にもそうですが、
多くの優れた人材さえも失ってしまったわけで・・・
普通はどんなに大惨敗を喫したとしても、
総指揮官や副将が死んでしまうなんてことは一般的に言ってほとんどありえません。
何故なら重要な人物はまず前線に出ませんし、
何より中軍という一番安全ともいえる位置にいるからです。
それなのに副将である張南だけでなく、
総指揮官である馮習まで討死するわけですから、
夷陵の戦いの大惨敗ぶりを話すには、これ以上の事実はない気がします。
劉備は命からがら白帝城に逃げる事に成功したという文章では伝わらない大惨敗ぶりが、
馮習・張南の死に全てが収まっているわけです。
夷陵の戦いで活躍した解煩兵・白耳兵
陸遜の火計によって蜀の敗北が決定的になると、
副将の張南ばかりか総指揮官であった馮習ですら討死してしまう始末・・・
沙摩柯ら異民族を味方につけていた馬良は、
異民族の反発にあって討死!!
蜀軍が壊滅していく中で、総大将であった劉備も命からがら逃亡を試みますが、
呉の追撃に追い詰められていきます。
ここで活躍したのが胡綜・徐詳率いる解煩兵だと言われていますね。
ちなみに解煩兵とは、
私情を挟まず敵を打ち滅ぼす呉の特殊部隊になります。
この時に劉備を命懸けで守ったのが、
陳到率いる白耳兵の活躍が非常に大きかったと言われています。
陳到は趙雲に次ぐほどの高い評価を受けた人物であり、
この陳到率いる白耳部隊がなければ、劉備は夷陵で討死していたとも・・・
夷陵で死花を咲かせた傅彤
ざっくり言うと上で述べたような感じで夷陵の戦いは終焉を迎えるわけですけど、
陳到率いる白耳部隊が奮闘を繰り広げる前に、
劉備を命懸けで守った人物がいました。
それが傅彤になりますね。
傅彤は、馮習・張南をはじめ、多くの蜀兵が死んでいく中、
劉備を戦場からなんとか逃がす為に殿を引き受けたのです。
一分一秒でも長く劉備が撤退する為の時間を稼ぐために奮闘し、
傅彤の部隊兵は次々に命をおとしていくこことなります。
そして最後は傅彤一人になった際に、
傅彤の死を惜しみ、呉に降るように呼び掛けたわけです。
死ぬぐらいなら生きて呉の為に尽くせと・・・
これに対して傅彤は、
「蜀の将軍を任された者に降伏する者など一人もおらぬ!」
と言い放って敵に突撃し命を落としたのでした。
また馮習・張南・傅彤などが討死していく中で、
魏への対応を任されて北方の守備を任されていた黄権は、
引くに引くことができなくなり、魏に降っています。
負の連鎖が次々と起こったのが夷陵の戦いでもあったのです。
ただ魏に降ってからの黄権と劉備の逸話は非常に心惹かれるものがあったりしますね。
余談ではありますが、傅彤の息子であった傅僉もまた、
最後まで蜀の為に忠義を尽くした人物でした。
263年に鍾会・鄧艾らが蜀へと侵入してくると、
最後まで魏に降ることなく、忠義を尽くして討死しています。
まさに「此の親にして此の子あり」とは、傅彤・傅僉のようなことを言うのでしょうね。