王脩(おうしゅう、字:叔治)

三国志には、曹操や関羽、諸葛亮のような華々しい英雄たちが数多く登場します。
しかし、その陰には、武勇ではなく誠実な人格と優れた統治能力によって乱世を支えた名臣たちも存在しました。
それを代表する一人が、王脩です。
王修と呼ばれる事も多い人物ですが、ここでは王脩と呼びます。
派手な戦功を誇る人物ではありませんでしたが、
その清廉な人柄と揺るぎない忠義によって、孔融・袁譚・曹操という三人の主君から厚い信頼を寄せられました。
王脩は青州北海国営陵県の出身で、
幼くして父を亡くしましたが、母への孝養を尽くし、学問にも励みました。
清廉潔白で私欲がなく、人に対して思いやり深い人物として、
若い頃から郷里の人々に高く評価されていたと伝えられています。
| 『三国志』裴松之注には、その人柄を物語る逸話が残されています。
母を亡くした翌年、隣村の祭礼へ招かれた王脩は、 祭りの賑わいの中で亡き母を思い出し、人知れず涙を流しました。
その姿を見た人々は深く心を打たれ、「悲しい思いをさせてしまった」と後悔し、 その後は祭礼そのものを取りやめたといわれています。
この逸話は、王脩の孝行ぶりが周囲の人々の心を動かすほどであったことを物語っています。 |
孔融に見出された才能
北海国相(太守)であった孔融は、王脩を高く評価して孝廉に推挙しました。
孝廉とは、地方で徳行と才能を兼ね備えた人物を朝廷へ推薦する制度であり、
前漢の武帝によって制定された郷挙里選の科目の一つになります。
当時としては大変名誉あるものでしたが、王脩が都へ上る事はありませんでした。
また当時の北海国では盗賊が横行し、地方行政は大きく乱れていたこともあり、
そこで王脩は高密県令に任じられ、治安回復にあたることになります。
王脩は武力による討伐を急ぐことなく、なるだけ血を流す事のない解決を目指しました。
武力だけに頼らった王脩の手腕は、王脩の政治家としての優れた資質をよく表しています。
袁譚を支えた忠臣
その後、袁紹が青州へ勢力を拡大すると、
孔融は北海を去り、王脩は袁紹の長子・袁譚に仕えることとなります。
治中従事として青州統治を支えましたが、
袁譚の側近の中には王脩を妬む者も多く、その才能を十分に発揮できない時期もありました。
これを知った袁紹は、一度王脩を自らのもとへ呼び寄せ、
その人格と能力を認めたうえで、改めて袁譚の補佐役として送り返しています。
袁紹自身も、王脩を高く評価していたことがうかがえます。
最後まで主君への義を貫く

官渡の戦いの敗北後、袁紹が病没すると、後継者争いが始まりました。
王脩は最後まで袁譚を支え続け、袁尚との争いでも奔走します。
しかし建安10年(205年)、袁譚は南皮で曹操軍に敗れ、討ち取られました。
袁譚は落馬したところを曹純に追いつかれ、
「私ならば、お前を富貴にしてやることができる。」
と命乞いしたものの、その場で斬られたと伝えられています。
王脩は急ぎ戦場へ駆け付けましたが、すでに間に合いませんでした。
獄門に掲げられた袁譚の首を前にして、王脩は人目もはばからず声を上げて哭しました。
周囲は曹操の怒りを恐れて制止しましたが、
王脩は少しも動じることなく、主君への最後の礼を尽くそうとしました。
その忠義に心を打たれた曹操は、袁譚の遺体を引き渡すことを許し、埋葬することまで認めています。
敵味方を超えて忠臣を敬う曹操と、最後まで主君への義を貫いた王脩。
この場面は、三国志の中でも特に心を打つ逸話の一つとして知られています。
曹操のもとで重用される
袁譚の死後、王脩は曹操に仕えることとなりました。
曹操は王脩の忠義と人格を高く評価し、魏郡太守をはじめとする重要な官職を次々と任せています。
王脩は公平な行政を行い、民衆からも深く信頼されました。
その後は中央へ召され、大司農や郎中令などの要職を歴任し、
魏王国の財政や宮廷行政を支える重要な役割を担っています。
王脩という人物
王脩は、戦場で華々しい武功を挙げた将軍ではありませんでした。
しかし、
- 私利私欲にとらわれない清廉さ
- 主君への変わることのない忠義
- 民を思いやる政治
- 武力だけに頼らない優れた統治能力
これらを兼ね備えた、まさに理想的な名臣であったといえるでしょう。
孔融に才能を見出され、袁譚には最後まで忠義を尽くし、その忠節ゆえに曹操からも重用されました。
敵味方を問わず信頼を勝ち得た人物は、三国志の中でも決して多くありません。
派手な活躍こそ少ないものの、王脩は乱世において「誠実さ」と「忠義」を貫いた人物として、今なお高く評価されるべき名臣の一人です。






