秦宓(しんみつ/しんふく)、出仕せず!

秦宓は若かりし頃から有望で招聘されることも多かったのですが、

病気と称して出仕することはなかったようです。

 

 

当時は簡単に出仕しない事が、

一種の流行となっていたのも事実ですが、

 

「秦宓の出仕せず!」

の精神はなかなかなのもので・・・

 

 

劉焉から招きを受けた時も断り、

その息子であった劉璋から招きを受けた時も余裕で断っています。

 

まぁ劉璋の時は、秦宓と同郷でああり、

治中従事を務めていた王商からというのが正確な所ですけどね。

 

 

ただ劉焉から誘いを受けた時は、

己は出仕することはなかったけれども、

 

これまた同郷の者なんですが、

任安じんあんを紹介するという優しさを見せたりもしていますね。

 

 

他にもこれまた同郷であった彭羕ほうようが、

名声が非常に高かった広漢太守の許靖に推挙したこともあったようですが、

 

それでも秦宓が仕官することはありませんでした。

 

 

まぁこれも許靖というより、

王商と同様に主であった劉璋に仕えなかった事と結局同じことなんですけどね。

 

とりあえず同郷繋がりが半端ない感じで・・・

「三顧の礼」も不発に・・・

劉焉・劉璋の二代にわたる支配が終了し、劉備が益州を手に入れると、

 

広漢太守を夏侯纂かこうさんに代えているんですけど、

秦宓を五官掾・師友祭酒として迎えようとします。

 

 

しかし、「秦宓の仕官せず!」はここでも力を見事に発揮!

秦宓さん、またもやベストタイミングで病気発動したわけです。

 

 

ここで負けじと三顧の礼を発動したのが夏侯纂であったりしますが、

秦宓から軽くスルーされる始末・・・

 

 

 

夏侯纂は長らく劉備に仕えている一人なので、

 

劉備が荊州で諸葛亮に対して、

三顧の礼によって味方につけたこともしっていたのでしょう。

 

だけどさり気ない所で三顧の礼が失敗に終わった例も実はあったんですよね(笑)

 

 

それも劉備が生きていた同時代に・・・

夏侯纂 -秦宓に対して「三顧の礼」の逸話が残る広漢太守-

初めての仕官(劉備)

これだけ長らく出仕を断っていた秦宓ですが、

最終的に劉備に仕官しています。

 

ただどういった経緯で秦宓を味方につけたのか、

そのあたりの記録が残っていない事から完全に不明なんですよね。

 

ただ従事祭酒として、

劉備に召し抱えられて仕官したという事が分かるだけで・・・

 

 

これだけ出仕を断ってきたんだから、

もう少し出仕の経緯についての言葉があっても良かった気がします。

 

 

 

とりあえず劉備に仕官した秦宓ですが、

劉備が呉討伐へ乗り出そうとすると反対したという逸話が残っています。

 

ただ関羽の復讐戦と考えていた劉備の怒りを買ったようで、

理不尽にも投獄される始末・・・

 

ただ後に許されて獄からきちんと出ています。

劉備 -流浪の果てに皇帝まで上り詰めた英雄-

劉禅政権下で活躍を期待された秦宓

劉備が死去し、劉禅が跡を継ぐこととなります。

 

そして諸葛亮は益州牧も兼任することになったのですが、

秦宓を別駕に任命して補佐してもらっていたようです。

 

その後、秦宓は左中郎将・長水校尉に・・・

 

 

 

224年になると、張温が輔義中郎将に任命され、

呉の使者として蜀へやってきたことがあったのですが、

 

この時に秦宓との問答があったりしてます。

 

 

この問答の前に秦宓が遅刻して、

故意に張温の元に来なかったといった逸話もあったりしますが、

 

秦宓は張温との問答で、

トンチの聞いた答えを返しまくったのでした。

 

 

これには張温も敬服したといいます。

 

 

また張温はこれらのこともあってからか、

帰国してから蜀の政治について称賛したことがあったようです。

 

孫権はそれを快く思われなかったことから、次第に孫権に疎まれる結果を招き、

不遇の死を迎えるに至っていくきっかけを作ったとも言われていますね。

 

まぁあくまで余談であり、一つの説ではありますが・・・

 

 

それから少しして秦宓はこの世を去っていますが、

最終的に九卿の一つである大司農にまで出世しています。

 

 

そんな秦宓を陳寿は次のように評価しています。

「秦宓は引き籠る事を好んだけれども、愚人のふりは決してしなかった。

 

他国の使者に対しての受け答えも見事であり、

文章も壮麗なものであった。

まさに一代の才士である!」と・・・