若かりし頃の許靖(きょせい)

若い時から高い名声を得ていた人物に、許靖なる人物がいました。

 

許靖の一族には、

曹操を乱世の奸雄と評した許劭がいたりしますね。

 

ただ二人の関係は、あまり良くなかったようです。

 

 

許靖が仕官したのは、

 

劉翊は汝南郡の太守に 任じられた時で、

許靖は尚書郎に取り立てられることになります。

許劭(許子将) -人物批評の大家/治世の能臣、乱世の奸雄-

董卓からの抜擢&董卓からの離反

董卓が台頭し、独裁政治が行われ始めると、

董卓の元で仕事をこなしていたようです。

 

許靖は周毖しゅうとうと共に人事担当に・・・

 

この際に許靖・周毖は、

優れた人物を多く抜擢したといいます。

 

 

まぁ延長線上に董卓がいたというだけで、

許靖としては漢王朝に仕えていたというのが正確な所だとは思いますけどね。

 

漢王朝に仕えていたけれども、

董卓が乗り込んで独裁政治を行ったというだけでしょう。

 

 

そして許靖は巴郡太守に任命されることがありましたが、

現地に赴くことがなかった為に、

 

代わりといってはなんですが、

御史中丞に任じられたのでした。

 

 

 

しかしそんな許靖が、選択を迫られる出来事がおきます。

反董卓連合軍の結成ですね!

 

 

なぜ選択を迫られたかというと、

 

自分の従兄にあたる許瑒きょとうが、

反董卓連合軍に参加した孔伷に協力していたからです。

 

 

許靖は董卓の凶暴性を知っていただけに、

罪に問われることを恐れ、従弟と関係があった孔伷のもとへと奔ったのでした。

董卓 -三国乱世を加速させた暴君-

各地を転々と流浪する

反董卓連合が自然消滅すると、

袁紹と袁術の争いが激化していくこととなります。

 

その時期あたりに、

許靖は孔伷の元を去ったとされています。

 

 

許靖が去った理由としては、

孔伷の死だといわれていますが、

 

正確な所を言うと、このあたりで孔伷の記載が消えてしまったことで、

 

孔伷が死んだものとして、

現在では推測されているといった方が正しい表現です。

 

 

反董卓連合が自然消滅し、袁紹と袁術の争いが激化し、

二人は豫州刺史の人事を巡って争ったりもしていました。

 

それらも含めて孔伷の死が自然なわけで、

新たないざこさに巻き込まれない為にも、許靖は豫洲を去ったとみられているのです。

 

 

 

豫洲から去っていった許靖は、

呉郡の許貢や会稽群の王朗を頼って各地を転々としています。

 

 

しかし許靖に穏やかな日々は訪れません!

 

袁術のもとのいた孫策が破竹の勢いで江東制圧に乗り出すと、

許靖は更に南の方にある交州へと流れていくことに・・・

 

 

 

もうはっきり言うと、戦乱を避けて逃げているだけですね。

自分の身がかわいいだけでの逃亡してるとみるのが自然なレベルだと思います。

 

 

交州へ逃れる際も他の者達が全員出発してから、

自らも避難したことが素晴らしいみたいな表記も残っていたりしますけど、

 

まぁ安全な上での綺麗事にすぎません。

 

 

何度も書きますが、

ここまでくると許靖は臆病なだけとみるのが自然だとしか思えませんね。

交州での日々(袁徽の書簡を添えて)

交州へと流れていった許靖らを、

実質交州を支配していた士燮は手厚く迎えています。

※士燮は交阯太守

 

 

また交州には袁徽えんきという人物がいましたが、

袁徽が早々に仕えていた荀彧へと手紙を送ることがありました。

 

その内容は次のようなもので、

大変に許靖についての褒めたたえた内容でした。

「許靖殿は才能豊かで、知略に優れた人物です。

また許靖殿は他人の事を優先して考えることができます。

 

そして周りの者達と苦楽を共にしてきたことで、

周りから大変に厚い信頼を受けております。」と・・・

曹操からの招聘×張翔の失態

曹操は許靖を招聘したいと考え、

張翔を使者として交州へと寄こします。

 

しかし上から目線で強制的に許靖を従わせようとした結果、

許靖から嫌われてしまいます。

 

結果として、許靖が曹操の招聘に応じることはなくなったのです。

 

 

 

ただ許靖は曹操へ手紙を張翔へ預けたのですが、

 

許靖を嫌った張翔が、

曹操へ書いた許靖の手紙を捨ててしまったのでした。

 

 

にもかかわらず、

許靖が曹操に書いた手紙の内容が残っていたりします。

 

 

張翔によって破棄されているのに、

現在まで手紙の内容が伝わっている要因として考えられるのは、

 

許靖がどういう事を手紙に書いていたのかを人に話していたか、

草稿を大事に保存していたからでしょうね。

 

そうでないと現在に伝わるはずのない抹消された内容なはずですから・・・

 

 

手紙の内容をすべて説明するには長すぎるので、簡潔にまとめると、

 

自分自身の苦境の日々であったり、

曹操への謝礼や称賛といった許靖の多くの心境がつづられていました。

流浪の果て(益州)

劉璋が許靖を招聘したことで、

許靖は益州へと足を運ぶことを決意します。

 

益州に到着した許靖は、

劉璋によって巴郡・広漢の太守を任されています。

 

 

 

巴郡・広漢と聞いて思い出してほしいのが、

かつて許靖は巴郡太守に任じられたことがあったという点ですね。

 

 

その時に許靖は断っていますが回りまわって、

そして苦労に苦労を重ねて巴郡太守に任じられたのですから、

 

人生とは因果なものですね。

劉備の入蜀×自分さえよければの許靖

劉璋のもとでのんびりとした生活を送っていた許靖ですが、

そんな折に劉備が益州へと攻め込んできます。

 

長期戦になりますが、

最終的に劉備が成都に迫って包囲することに成功!

 

この時に今まで自分の身を最優先にしか考えない許靖が姿を現します。

 

 

自分を招聘して抜擢してくれた劉璋をサクッと見放し、

城壁を乗り越えて真っ先に劉備に降ろうとします。

 

しかし城壁を乗り越える際に、

見つかってしまってこれが叶うことはなく・・・

 

 

その後すぐに劉璋は劉備に降ることになりますが、

許靖のことを聞いた劉備が許靖を用いることはしなかったといいます。

 

 

任侠精神が強いところがある劉備にとっては、

 

世話になった劉璋をあっさり裏切り、

身の安全を優先した許靖が好きになれなかったのでしょう。

劉璋 -民衆を第一に考えた益州二代目-

劉備に高く用いられることになった許靖

劉備から遠ざけられていた許靖ですが、

転機となるタイミングがあります。

 

 

それは劉備入蜀の功労者であった法正の言葉でした。

 

法正は劉備に対して、

「天下に大きな名声を持っていながら、

中身の伴っていない人物が許靖です。

 

 

しかし劉備様は益州を手中に収めたばかりなのに、

 

広く名声を得ている許靖を冷遇すれば、

多くの人が優れた人物を劉備様が用いなかったとして広まるでしょう。

 

 

昔、燕王が郭隗を待遇したのが最も良い例で

『隗より始めよ!』

という言葉を聞いたことがあると思います。

※これにより楽毅が燕に仕えたことで、大国である斉を滅亡寸前まで追い込むきっかけとなる。

 

だからこそ劉備様はこれを見習って、

許靖の名声を大きく利用すべく、高く用いるべきです。」と助言したわけです。

 

 

劉備は法正の言葉をすぐに採用し、

冷遇していた許靖を高く用い、左将軍長史に取り立てています。

 

それからの許靖はトントン拍子に出世し、

劉備が寒中を手中に収めて漢中王になった際には太傅に任じらることに・・・

 

劉備が皇帝に上り詰めると、

許靖は三公である司徒に任じられるまでになったのでした。

 

 

許靖は七十歳を越えても人を愛し、

優れた人物を育てることを忘れず、清談に没頭していました。

 

その様子を知っていた諸葛亮をはじめ周りの者達は、

許靖を高く評価したといいます。

 

そんな許靖ですが、司徒になった翌年にこの世を去っています。

劉備 -流浪の果てに皇帝まで上り詰めた英雄-