滕芳蘭(とうほうらん)-孫晧の正妻–
滕芳蘭は滕胤の族子であり、滕牧の娘として誕生しています。
ただ257年の事件があってからというもの、
滕牧は連座の罪により流刑にあって辺境の地へと・・・
事件というのは孫綝の専横に反対し、クーデターを起きたのですが、
クーデターの主犯らは、滕一族の滕胤と呂拠だったのです。
ただそのクーデターが失敗に終わってしまったことで、滕胤は討ち取られてしまいます。
そのとばっちりを受けたのが滕牧だったわけですね。
しかし翌年に孫亮が廃位に追い込まれ、新たに孫休が皇帝になると、
大赦が出され、滕牧は罪を許されて戻ってきています。
孫晧の正妻に選ばれた滕芳蘭
孫休の即位に伴って、烏程侯に封じられた孫晧ですが、
ここで滕芳蘭が正妻に任じられたとあるだけで、
正確にどのタイミングで孫晧の妻になってあたかは不明です。
烏程侯になったタイミングで嫁いだのか、
それ以前から嫁いでいて、烏程侯のタイミングで正妻に格上げされたのかですね。
ただ父親が大赦で許され、
滕芳蘭は孫晧の正妻に任じられたわけですから、
滕芳蘭にとって、人生の転機になったことだけは間違いないでしょう。
孫晧の即位&薄れた寵愛
孫休が崩御し、孫休の遺言を無視したのが、濮陽興・張布らでした。
もともと息子を後継者として指名するも、
不通に無視して孫晧を即位させてしまったのです。
これにより滕芳蘭は皇后に任じられ、
滕芳蘭の父親である滕牧は衛将軍・録尚書事に任じられることになります。
他には高密侯にも封じられるという待遇ぶりで・・・
しかし滕芳蘭が孫晧からの寵愛を失うと、
「皇后」の位の剥奪だけでなく、「命の危機に直面した」といいます。
そんな滕芳蘭を守ったのが、
孫晧の生みの親であった何姫(何太后)でした。
孫晧は他人には非常に厳しい人物ではありましたが、
母親である何姫を含め、身内には情が深いこともあり、
母親の言葉を素直に聴き入れたといいます。
孫晧から滕芳蘭への寵愛は冷めてはいたけれども、
これらのことから滕芳蘭の何太后への感謝を生涯忘れることはなかったようです。
呉の滅亡&洛陽への移住
孫晧の暴虐政治のせいもあって、
280年に晋によって呉は滅亡させられます。
孫晧は蜀の劉禅同様に降伏したことで命までは取られず、孫晧は洛陽へと移されました。
この時に正妻であった滕芳蘭も孫晧に付き従っています。
また孫晧の生みの親である何姫(何太后)も、
孫晧や滕芳蘭と共に洛陽へと移住したのだと推測していますが、
残念ながら何姫が最後どうなったかは記録として残っていません。
とにもかくにも洛陽へと移住した孫晧ですが、
284年に亡くなることに・・・
その時に滕芳蘭は、孫晧の為に哀悼文を捧げたといいます。
夫である孫晧に先立たれた滕芳蘭ですが、
「滕芳蘭自身も洛陽にて亡くなった」と伝わっています。